反日常系

日常派

日記

 いつも眠りは浅く、二三時間おきに起きる。よくない夢も押し売られて体力が奪われていく。時折夢と現実の区別がつかないことがあり、記憶の中にないことは夢だと区別しているが、何回も見た夢だと上手く区別ができなくて困ってしまう。

 夢の中では僕は死んだ方の祖母の家をルームシェアという形で借りていて、たまにその家に向かうとルームシェア相手の不良が僕の部屋を断りなしに使っている。僕が帰るとその度に不良は罰の悪い顔と、見くびっている相手に自分が見くびっていることを顕示した時の達成感にも似た顔を織り交ぜて、曖昧に笑う。高い頻度でその横には不良の友人がいて、同じような顔に「誰こいつ?」という疑問を付属させている。

 なんでこんな夢を見るのだろうと思う。読み手のことを考えず、ただ話したいこともないのになにかを話したいという欲求に沿って夢の話をしている自分を客観的に見ては自己の内奥に閉じこもってしまう。鏡では見れない自分を見ようと夢占いに期待しても、それらしき答えは見つからず運勢といった曖昧な予報を投げかけられる。

 夢の話をしたい訳ではないのだ。一番話されて困る種類の話をしたい訳ではないのだ。何か、自分ではない物語を書きたい。もう自分の生活には発見すべき何かも再発見に足るものもなく、毎回同じ癖に数パーセントは違って見える気分の上下も今のところはなくて済んでいる。人生に物語が存在するものなのか、それは時代や国によってかなり左右されるだろう。日本国の同年代たちは、物語はないくせに様々な事で忙殺されて、暇な時に立ち上がってくる余計な自我に直視されなくて済んでいるように思う。僕もそうできたらいい。

 あまりに現実から距離を置いてしまったが故に、人間が個々生きていて個々何かしら考えているということがうまく想像できない。自分以外の語りの存在しない視野でぼんやり考えていても、多様な視点から生まれる立体感は生まれない。すべてが平面に見えてしまうなら、漫画でも読んでいた方が楽しい。

 本を読むべきなのだろうが、気力がない。気力が全ての言い訳に当てつけられて、仕方なく尤もらしく感じられる。鞭を打つべきなのに、鞭を打つことも気力を理由に中止されている。絶えずトカトントンが鳴り響いていて、何かに熱中することすらできない。馬鹿馬鹿しい人生を正当化するために、「人生とはそもそも馬鹿馬鹿しいものなのだ」と言おうとしたが、一般化するにはあまりにも素晴らしい他人の人生を空想してしまい、口がパクパクと金魚みたく動いただけで終わった。

日記

 老婆が、一人だけ重力に配慮されているかのようなスローモーションでゆっくりと倒れてきた。駅の上りエスカレーターでのことだった。

 老婆は杖をよたよたとつきながら、逆Uの字に見えるくらいの姿勢で、エスカレーターに乗るのも三段くらい様子を見て、えいやと覚悟を決めてその流れに乗った。僕はその様子を見ながら、大縄跳びで躊躇する子供や想像上の三本足の生き物の子供が生を受けた様子を連想してしまう。僕は、降りる時も時間を要するだろう老婆のプリケツを本田圭佑のボールトラップの動きで蹴り上げてしまったらどうするべきかとか、老婆の尻がプリケツである可能性は限りなく低いだろとか考えていた。尻を蹴り上げてToLoveるにならないとも限らないので、何段か余裕を持って後に続く。

 エスカレーターは緩慢に動き、それでいてなめらかな動きで僕と老婆、その他数人を運ぶ。

 老婆は手に持った荷物を下に置き、背伸びをしたかと思うとバランスを崩し、こちら側へ向かって背伸びの体制のまま倒れた。僕は何が起きているのかを理解するよりも早く体を横に移動させ、避けてしまう。その結果、老婆は凄まじい音を立てて七八段程度滑り落ちた。下にいたスマホを弄っている女性の足元で、ようやく止まる。怪我はないかと思いながら、エスカレーターを逆走して老婆の元へ向かう。出来れば少女漫画のように受け止めてやるべきだったか。しかし将棋倒しになっては全員が危ない、と自己保身の考えも思い浮かぶ。老婆はあまりの衝撃で驚いてしまって立てないようで、手を握って立たせようとする。スマホを弄っていた女性はスマホをしまい、もう片方の手を握って助けてくれる。老婆は強く手を握っているが、なかなか立てず、エスカレーターを止めるべきかとも思う。手を握って立たせようとしているが、手を離して老婆が自分自身で立つのを見守った方がいいのだろうか。しかし、バランスを崩してさらに下に転げ落ちる可能性もある。その折、下りエスカレーターに乗っている中年男性が「危ないなあ!」と苛立ち紛れの大きな独り言を言いながら下へと運ばれていった。何故関係もないのにそんなことを言うのだろうとも、何故老人にそこまで怒れるのだろうとも思う。老婆をどうするのが正しいのかで困惑して、手を離した時に老婆が立っていたかどうかも定かではない。とりあえず、大丈夫そうなのを確認し、エスカレーターの最上部で地面に蹴られ続けている老婆の荷物を持ち、最上部で待つ。

 老婆がようやくエスカレーターから降りる。それを見ている野次馬がエスカレーターの降り口に溜まっていたので、「とりあえずエスカレーターから降りましょう」と言う。老婆に手荷物を渡すと、少し重い荷物は力ない老婆の手ではかなわず地面に落下してしまう。老婆から感謝されたかも覚えていない。感謝に値するような適切な対応ができたとも言いきれない。一番適切な対応はなんだったのだろうか。周りから自分は良い人に思われているのか、無能でおろおろしている人に思われているのかと余計なことも考える。ただ、苛立つ中年男性はそんなこと考えていないだろうなということだけはわかる。

 自分を批判する自分の声とそれに対する言い訳で絶えず口論が脳を蠢いている。いい気持ちで生きるためにも、常に行動するのは前提で、適切に行動できるようになりたい。

日記

 アルコールで眠くなり、コーヒーで眠くなくなる。その中間を行き来しながら、ただ、ぼんやりと思いつく物事に嫌な出来事が思い浮かばないように気をつける。酒を飲めば直近のことは忘れるくせにずっとあるものごとは消えない。死にたいとうわ言のように言うけれど死ぬのは何かと先延ばしにしてしまう。少しでもファンタジックな思考回路にしようと、小説を書くけれど少しも良いことは思い浮かばない。誰かが僕に仲良くしてくれたらいい。その誰かが安心をくれるならもっといい。けれど、そんなふうにこの世はできていない。

 ずっと、自殺の名所を旅したく思う。その当時では高かった団地の屋上から下を見下げて楽しいと思いたい。誰かが作った神話を書き換えるように、最近の死者に名を連ねたい。けれど、そうしようと思う気持ちは強く続かず、いつか行こういつか行こうと思いながら空想上の地面に、頭から血を集中線のように吹き出した人間を想像する。その人間の顔は最近見た刑事ものの被害者になってしまうし、正解の顔は今や伺い知れない。

 今や誰も見ていないブログを、生存報告のように更新する。昔は見ていて、今は見ない人は、昔の僕に今では見れない何かを見ていたのだろうか。結局、前持っていようがいなかろうが、今持っていないのなら同じことで、日に日に自分が凡人になっていくのを感じる。少なくとも昔は、凡人ではなかったという幻想を見続けている。

 たとえばオーバードーズ、たとえばリストカットなど、症例に加わってからしばらく経った自傷行為を、真新しいものと勘違いして自己の物にしたい気持ちも、今や二十七にもなると存在しない。オーバードーズをすれば弱った体が入院を必要としてしまうし、リストカットも外科医に毎日通院することを約束させられるのだと思うと選べない。違法薬物をやりすぎて死んだギタリストも、マシンガンで頭を吹き飛ばしたロックスターも、寝ゲロで死んだシンガーも、僕の歳になる頃にはもうとっくにそういった自傷行為が何一つ現状を変えてくれないというのはわかっていたのだろう。僕はまだ確実に死ぬやり方以外に楽しい番組とか幻想が見えすぎていて、その方法を選べない。

 自殺が作り上げる神話の最後尾に加われればいいと思う。けれど、自殺というのはユースカルチャーで、今の自分がやっても痛々しくて仕方がない。自殺をすれば誰かが自分の行いを後悔してくれるというような神話も今ではかなり掠れて見える。ただ、生きるしかなく、そして向上させていかなければならないのだが、そうできるとも思えない。それなのに信じることを未だにやめることができない。空想の屋上から空想の地面を見るが、誰かが誰かの顔をしながら、死んだ後に自分の顔を他者に想定させ続けることの難しさでその誰かの口は常に動いている。

日記

 今日は寒く、天候の話をする度に、太宰治が「昔の文学者のサロンでは天候の話しかすることがない者のことを天候居士と読んだ」というような内容を書いていたのを思い出す。もう十月も終わりかけ、その暦に則ればそれらしき天候なのだが、毎回そう思いながらも思ったよりも時間が経つのが早いと感じる。最近は酒や本といった娯楽を選択しているため、より時間が経つのが早い。一日は長く、過ぎた一年は短く感じるのが暇人の常である。幸いにも、孤独と暇を飲酒やら読書で燃やすことができているが、そこに憂鬱が入り込むと全てが台無しになってしまう。憂鬱に崩されないように時間を差っ引いていくジェンガが、今日も常々と何一つ変わりなく、机の上に散らばった。溜息をつく。

 今日もまた、病院に通う。医師やらカウンセラーは僕があまりにも人に心情を吐露するのが下手な為に敵のように思えてならない。そんな調子なので、酔歩の足跡から何かを察してもらおうと片手にチューハイを握りしめ、カウンセリング室や診察室へ向かう。酔っているふりをして、その実幾分かは酔っているのだが、目を瞑り、謳うようにうんうんと喋る。なかなか自分の自意識が邪魔をして上手く痛切に響かせることが叶わない。破滅的に酩酊していないと、そういった免罪符や口実がないと人に辛さを語ることができない。そのせいでチューハイを小道具にするためにコンビニに寄って小銭を増やしたり減らしたりしている。

 自分の長所なのか短所なのか、自分の語りに常に客観的視点を挟み込まずには喋ることができず、信頼できない語り手というような語り方ができない。酒を句読点のように注ぎ込みながら、「僕はね、酔っていないんです。酔っている人間は酔っていないと言うのが常ですけれども、酔っていない人間だって酔っていないと言うものでしょう。僕は人に弱みを見せるのが苦手で仕方ない。自傷の後の手首や首の縫合糸の数だったり、飲み下した錠剤の数が一番真に迫るもののように感じます。それ以外の道を模索しようと、今日は飲酒をしているというていでなんとか言葉を吐いているわけです。僕は酔ってなんかいませんよ。この言葉だって演技じみていて、その実演技なんです。喋っている内容は本当ですけれども、喋り口調は全て演技です。こうでもしないと、他者からしたら僕の悩みは他人事な訳で、元気だったらそこに可笑しさを付け加えることもできますけれど、今はそれが不可能なので、この口調で喋っているんです。僕の演技があなた方に伝わるとは思っていないですし、伝わる可能性が少しでもあるのなら、演技しているということは黙っているべきなんですが……客観から逃れることができない……」

 そう言って僕は一息に缶に残ったチューハイを飲み干した。時間が来て、次回の予約をする。部屋を出る時にわざと七割ですっ転んで、へらへらと笑うのも欠かさない。すっ転ぶ為に酒を飲んでいるのかもしれない。零さないように飲み干した缶チューハイが病院の床を転がっていて、それを追い回しながら頭を下げて病院を出た。

日記

 友人と酒を飲んだ。毎日のように──と言うと毎日ではないがほとんど毎日という風に取られるだろう。毎日である──酒を一リットルから飲み、前後不覚になったふりをして憂鬱をやりすごしている。なので、寂しく酒を飲むならせめて友人と酒を飲む方が些か健康であろうという目論見があり、友人を誘ったのであった。他には、躁鬱病の調子が酷い時に、友人からの誘いを断り続けていたことも理由になる。まあ、そんな調子で浅草に酒を飲みに行った。片手で握れば完全に姿を隠す程度のコップを五六杯飲み(そこは電気ブランが売りの店で、その場所の売る電気ブランだったせいか、単に友人と飲む酒が美味いせいか、酒に慣れたせいか、前にネット販売で瓶で買った電気ブランよりは幾分か美味しく感じたのだった)、酔ったふりをして適当な話を続けた。風俗の話やら文章の話やら未解決事件の話やらをした。何を話したのかを正確に思い出せないことから考えると、または家に帰った時に寂しくて世の中の全てを怨みそうになったことから考えると、ちゃんと酔っ払っていたようだ。

 話した内容の中で痛切に響くのが、空想の中でさえ、女性と話をできるような気がしないという事だった(僕ばっかり話していたから、友人がそう思っているかは定かではないが)。何処にも僕と話せるような女性が存在しない気がする。自分が余りにも高尚過ぎるためという訳ではない。ただ、彼女らと僕では住む世界が違いすぎるのではないかと思える。あまり、僕が読んでいる本を読んでいる女性はいないし、僕の聴いている音楽を聴いている女性はいないし、そもそも僕と話したい女性など存在しないような気がする。酷く馬鹿にされているが故に、わざわざここまで降りてくるような女性は存在しないように思えてならない。

 馬鹿にされているのが被害妄想ならいい。だが、被害妄想と察するには例外を視界に入れなければならないのであって、僕のような人付き合いが苦手な人間にとっては妄想が真に迫り続けていくのだろう。女が酷く残忍で、利己的な生き物に思えてならない。僕はとてもじゃないが女性のようにはなれない。

 

 まあ、誰もこんなブログ読んでなどいないし、なるべく上手に文章を書こうと思っても上手くいかないから、死にたくなる。指を上下左右にフリックさせても、画面に映るのは愚痴や妄想ばかりで、この文章を少しでも素晴らしくする為には自殺しかあるまいという結論に至る。最近、自殺に至った人々の手記や作品を読み耽ることに執心していて、それは作品に触れたいからというよりも、自分もその神話の最後尾に並びたいという欲求に拠るものだ。太宰治田中英光などから始まり、山田花子華倫変二階堂奥歯やら南条あやなどに辿り着く。最近は漫画家の羽鳥ヨシュアが気になり、今日、夜行の羽鳥ヨシュア追悼号を購入しに神保町まで向かった。羽鳥ヨシュアの作品を読むのは初めてだった。さして面白いともつまらないとも思わなかった。ただ、死んだだけで、追悼されているだけという印象を持つ。何作か読めたらいいのだが、単行本化されていない為、夜行のバックナンバーを追っていくしかない。ただ、追悼文は人間がゆっくりおかしくなっていくのを追体験できるみたいでよかった。

 せめて、太宰治のようになれないのなら、羽鳥ヨシュアのようになりたい。本になるほどではなくとも誰かに認められ、誰かに心配されたい。誰かが僕が死んだ時に、僕との間に何があったか、記憶の回路を辿ってほしい。僕のような誰かが、僕が死んだ後に気になって墓を荒らすように作品を暴かれたい。けど、結局は誰でもない誰かがそうなってくれることを祈っているだけである。誰か、個人の顔が思い浮かぶこともない。誰も愛してないから誰も大事にしてくれないのか、誰も大事にしてくれないから誰も愛せないのだろうか。自己憐憫に収斂していく物しか書けないのが悔しくてたまらない。皆死ねばいいし、そんなこと言ってる自分が一番死ねばいい。自分が死んだ後に、記憶の回路を辿ってくれる誰かだけ生きていればいい。酒の力を借りて言えばそんな感じだ。