保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

日記

 昨日は古本屋に行き、クーポン券でつげ義春の『義男の青春・別離』と高橋源一郎の『虹の彼方へ』を貰って帰る。あまりにもぼくは不安定だったので、店員に世間話でも仕掛けようかと悩んだが、一回も話したことのない人に抱きがちな、優しさの幻覚のせいだろうから、幻滅したくなくてやめた。帰っても死にたくなるだけだとうろうろ決断を後にしてドラッグストアを見に行った。咳止めが売ってなくて、うろうろしているうちに夜の七時を回る。今から買って飲んでも効くのは十一時か。そう思うとさっさと帰って寝た方がいいなと思う。家を漁っていたら出てきたポイントカードでお酒の割り材を貰って帰る。

 なんだか、物を貰って、現代社会にはないような宙ぶらりんな気持ちだ。家にあった酒を飲んで、つげ義春を読む。前に買ったことのある本と収録内容が被っていたが、今読むと昔とは味わいが違う。主人公や登場人物の人間らしさとせせこましさを前は嫌っていたけれど、今では嘘のない語り方に好感が持てる。ぼくは『やもり』が好きだったのだけれど、こうして読んでみると『別離』が真に迫ってくる。主人公が女と別れ、薬をたらふく飲むという話だ。前半の女性をめぐる話では人間らしく一人称なのだが、薬を飲んでから記録とも言うべき淡々とした筆致になるのがとても共感した。小便をする時に的を大きく外して、跳ねっ返る飛沫が気持ちいいという場面で、薬をたらふく飲んだときの痴呆にも似た幸福感を思い出す。何にせよ、自分に正直に物事を描写しようとした結果、淡々とした筆致になるというのが羨ましい。このオフビート感はつげ義春のどの作品にも現れていると思う。感傷に頼らず、感情をさらけ出すことでより滑稽になる。自分を滑稽に描くというのは、描写への誠実な態度な現れだ。

 酒を飲んで、出会い系を久しぶりに開いて適当な人に話しかけると、「○○(ぼくの本名)君だよね」と聞かれ、恐ろしくなった。前にここで作った元カノに運悪く話しかけて、家に来させて、フェラチオだけさせて家に帰したので、元カノにはひどく恨まれているのだった。「誰ですか?」と聞くと「誰でしょう」と言った答えが帰ってきたので、恐ろしくなって出会い系を辞めて寝る。朝起きるとラインで少し前に話した出会い系の女から、「逃げるな。死ねばいいのに」と帰ってきて、運良く元カノではなかったので安心してブロックした。そもそも数言だけ話した人間にそこまでの気持ちを持っていられるのがすごい。ぼくだったらすぐにどうでも良くなって忘れて、また話しかけてしまう。こんなことを繰り返していてはいけないなと思い、出会い系のアイコンを血まみれの左手の写真にした。きっと永久アクセス禁止になるだろう。もう四年間も出会い系をやっている。いい加減潮時だ。

 朝から外科に行って皮膚科に行って薬局に行ってと大忙しだった。明日は心療内科がある。外科も行かなければならない。今日抜糸したから、もう行かなくてもいいだろうと思ったが、あと一週間軟膏を塗りながら通わねばならないらしい。どうせ何をするでもない日なのだが、予定が入って最初から何もできない日になるのはかなり抵抗がある。ちゃんとなにかをできる一日を作り上げたい。

日記

 ここ数日の記憶がほとんどない。どう過ごしていたのかと思うが、きっと過ごすと言えるほどの何事もなかったのだろう。過ごすというよりやり過ごす、そんな、生活に対して誠実ではない態度で数日をパスして、二度寝から起きるみたいに思ったより過ぎている時間に対して様々なことを思う。

 明日は最高気温が十四度らしい。天気予報がぼくの社会との接点だから、天気予報ばかり気にしてしまう。徐々に冬になっていく。思ったより冬の足が遅いことに腹を立てていると、すぐに秋が去ってしまう。終わってから全てに気付く気がするのは、もう答え合わせがなくてバツをつけられないからだ。すべての解答欄を感傷で埋め尽くして何かあったような気持ちになるけれど、やはりそれもやり過ごしているだけで嫌になる。

 ネットを見ていたら、落ち葉で遊んでいる記事が出てきた。そうか、もう葉っぱは落ち始めてるのかと思う。冬になって裸になった木を見て、思ったより過ぎた時間に混乱させられないように外に出た。隣駅の公園に行くと、日曜日だからか家族づれや何かを観察しているらしい老人たちで溢れていた。数ヶ月夜にしか公園に行っていなかったので、公園に子供がいるのかと当たり前のところで驚いた。公園は木陰ばかりで、数日前に降った雨が落ち葉を腐らせて、土との境目を曖昧にしていた。なんとなく誰もいない場所で木にもたれてみる。涼しい。こういう時に煙草でも喫む人なら座り込んでても何もおかしくないのかなと思う。三人目の通行人と目があったので、立ち上がって歩きまわる。懐かしいことばかりだ。桜が咲いていた頃に散歩して、公園にある売店で酒を買うか悩んでいた。夏になって秋になったけれど、未だにそこで酒を買ったことはない。まあ、何にせよ季節を感じられるのはいいことだと思いたい。毎回何かを失った気持ちになるマスターベーションクリシェでも、溜め込むよりは幾分かマシだろう。感情に慣れていかないと。どうせ病気で感情が溢れるから、備えていかないといけない。

日記

 飲みすぎて眠ったのか倒れたのか、夜中に気づいたらゲロに顔をつけてぶっ倒れていた。血まみれというにはそんな血まみれでもないけれど、ちょうど自分がよく寝てるあたりに血がこびりついていた。腕に包帯が下手くそに巻かれている。こたつの敷布団が一気に汚れて、どちらかというとそっちに落ち込んだ。腕は木を隠すなら森的にどうやっても変わらないのであまり気にしなくなった。それに数年経てばケロイド以外は白く薄れていく。とりあえずティッシュで髪の毛のゲロを拭いて、こたつの敷布団も雑巾で拭いて、ファブリーズをかけて寝た。

 

 めちゃくちゃAmazonでこたつ布団を検索した記録が残っている。朝起きたら九時だったので、下手くそにやたらめったらにテープやら包帯やらが貼っている自分の腕が恥ずかしくなって病院に行った。きっと頭の回っていない状態で混乱している自分が頑張ってたのだろう。微笑ましい。寝間着のまま外に出てから、自分が風呂に入ってないことに気づいて恥ずかしくなった。家に帰るまで、自分がゲロの臭いがすることに気づかなかったのは幸いだった。さらに言えば袖口が血で汚れていた。めちゃくちゃ混んでいる病院でも自分の両隣が空いていたのをぼくは不思議に思いながら、爆音でサイケバンドを聴いていたら「イヤホンをしてください」と注意された(イヤホンついてると思っていた)。確実に会えるタイプのキチガイになっている。ぼんやりとテレビを見てると名前を呼ばれ、手を挙げて診察室へと急ぐ。

 医者は老人で、明るい性格だった。「おいおい〜、どうしたの〜」みたいな感じで話をしてくる。地元にいた外科医もこんな感じだったなと思って一人で笑った。地元にいた時は外科が最寄りになく(田舎の人間は腕の一本くらいなら勝手に生えてくるため)、一時間に一本の電車で三つ先の駅まで行って、縫合や消毒をしてもらっていたのだ。医者は麻酔をして縫っていく。麻酔をすることに驚いてしまった。田舎では麻酔をされなかった(田舎には麻酔というものがない)ので。あまりにも長い間縫ってるので、眉間に皺を寄せたまま何も考えずにいたが、医者がめっちゃ話しかけてくる。

「地元どこよ」

「えっ、千葉です」

「千葉か……。こうなってるの親御さん知ってんの?」

「いや、まあ……知ってるんじゃないですかね(前に救急搬送された時に親に連絡がいったので、それを危惧して嘘をついた)」

「ふーん、何年生よ」

「えっ、二十三です」

「あっ、何してんの?」

「何もしてないです……」

「病気よくなるといいね」

 そうして聞くこともなくなったのか、押し黙り、ぼくは目を瞑って縫合の終わりを待った。終わると思いきや糸が足りなくなったらしく、新しい糸を持ってきた。結果、二十三針縫った。明日の午前中にまた来て消毒を受けてくださいとのこと。薬局で薬を待ってる時に、自分の歳と縫った針の数が同じということに気づいた。去年は十八針(首)と何針か(手首)だったな。なんだか符合が面白くて一人で笑った。特に手首を切った理由や、去年首を切った理由はないのだ。躁鬱の転換地でぼくは手首を切りやすい。そして、周りが思ってるよりは切っている人間はそんな重いこととして捉えていないことが多い。ぼくも転換地に来たらやってしまうというだけ。手首を切った後、なんだか感情の発露が済んだ後だからか、頭が冴えるというか、フラットな気持ちになれる。ガラスの曇りが取れていく感覚に似ている。

 家に帰って、手首を濡らさないように風呂に入って、思いついて改名への手続きを進めた。郵便局に行って書類を送る。洗濯をして、パン屋に行ってパンを買って食べた。パン屋のパンは人を幸せにする成分があるから合法ドラッグと同じ立ち位置にあるなとか考えた。この一日が始まった時はゲロと血にまみれていた人間がなにを普通に生活してるんだと思って笑った。幸せな一日でした。

 人と久しぶりに会うからと、鼻毛を無にして(ぼくのできる最大限の身だしなみ)外に出たら風邪を引いた。ここ最近、人と会ってうまくいっていたから人と会うフットワークが軽くなっていたけれど、人と会ってうまくいかないと消え入りたくなる。人と会った後に言わなくてよかったなと思う言葉が頭の中をぐるぐるして、答えのない反省会して、ただただ自分の事を糾弾している。簡単に自分が悪いという答えに辿り着いては、自分を嫌う一番簡単な解決法に頼っている。結局は自分を嫌っても、なんの解決にもならないし、最終的に甘い自分が自分を許してしまうからなんの意味もない。今年の上半期は人に会いたくなって、人に会っては落ち込んで、自分に欠けているものが見えて死にたくなることを繰り返していたのを思い出した。

 病気のせいか、自分のせいか、まともな日が百あってもそれを台無しにする一日があって、砂場で城を作っていても自分に蹴っ飛ばされて砂に戻ってしまう。親しい人から順に遠ざかる。優しい人から順にぼくの悪いところを見つけてしまう。自分の悪いところを病気だとか理解だとかそんな言葉でごまかしたいけれど、そうしたらぼくの悪いところを人に寄りかからせてるだけになる。結局、うまく人に接することができないぼくが悪いのだから、さっさとぼくが人との接し方だったり病気なりを治していかないといけない。うまくいかない。こうなる度に自分が誰にも寄りかからないように強くなれたらと思う。それかもう寄りかかれなくて地面にぶっ倒れてそのまま消えていけたらと思う。

 

 鼻水が酷いから風邪薬を買いに行ったら薬剤師がすっ飛んできて「咳止めは確認が必要です」と言ってきた(咳止めはオーバードーズによく使われるため)。完全に薬剤師に咳止めの奴として顔を覚えられている。咳は出ていないからと普通の風邪薬を買っていたので、薬剤師は「あっ違いましたね」みたいな感じで誤魔化した。もう何年ぼくは病人をやっているんだろう。何人がぼくを病人だとわかっているのだろう。病気で逃げ続けてきたけれど、もう病気で逃げられないところまで来ているのだろうか。水面に映る自分に吠える犬のような気分だ。水面に映っているのが自分だと気づいたら自分のことが嫌いになってしまうから、わかってるのにわかってないふりをしてなんとか死なないでやっている。けれど、自分を省みないぶん、他の人に疎まれていく。

 こうやって鬱とか憂鬱を書いている自分のことだって嫌いだ。人はそんなところをおくびにも出さず生きているのに、ぼくはいったい何をやっているんだろうと思う。自分が落ち込んだり疲れたりすることで、人は落ち込んだり不快に思ってしまうときもあるから、なにも悟られないくらいの強さが欲しい。みんな隠れて泣いたり手首を切ったりしているんだろう。人に自分のことで悩まないで済むように。ぼくもいい加減赤裸々以外の社交を身に付けるべきなんだ。

眠るまであと何ミリリットル

 酒を飲んでいる。あまりにも毎日ネット生放送をしても喋ることはないし、酔っ払って自分の顔と向き合ってると自分にキスをしそうになるから今日はやらないようにしたい。酒があると何も考えずに飲んでしまうからいけない。辛くもないけれど、自我をボヤけさせて鏡か地面にキスをしそうになる。

 自分の書いた昔の記事を読んでいると、なかなか良いことを言っていて、賞賛を送りたくなる。自分に対する距離の遠さがぼくにはいつもあって、そのせいで自分に対する不理解が調子によって高まったり低まったりする。記事によっては冷笑がひどくこびりついていて、少しひやりとさせられる。ぼくはある程度、性善説を信じているから、冷笑はポーズというか人と会うのに必要な格好つけだと思っている。人はそんなに悪くないんじゃないの、というのがぼくは常に思っていて、特に人が「思ったよりぼくは悪い人だよ」などと謙遜する時に、性善説を感じる。冷笑や悪さは身に付けるもので、本質ではないと思っている。だから、逆にぼくは文章を書く時に悪ぶる。パンクスが唾を吐くように、ぼくは文章を書く。セックス・ピストルズのライブでは親愛の情として唾がステージに向かって吐かれていたという。それではやはりダメだから、愛を伝えられたらいいなと思う。パンクスからヒッピーへ、ラブアンドピースでありたい。こんなことを思えるのは、酒を飲んでるからではないとありがたい。こんなことを言えるのは、酒を飲んでいるからだけれど。愛してますよ。人類。