反日常系

日常派

こうかいしたこと

 高校に入ってからというものの、期待していたわけではないけれど良いことも悪いこともなかった。まあ、前と比較して悪いことがないということだから、ずっとマイナスを低空飛行していて、慣れているだけかもしれない。

 友達と言えるような人はいない。一人、のけ者が集まるように、ぼっちのヤンキーがぼくに目をつけていた。一応、この高校はすこし頭のいい部類には入るから、不良なんて他にいない。彼は休み時間の度にぼくを呼び出し、すこし話をしたり、ワックスをつけて髪を立たせたりしていた。毎週、なにか校内の備品を壊すところを見せて笑っていた。ぼくも、何を言っていいのかわからないからとりあえず笑っていた。昼休みには校舎の人が来ないところで煙草を吸うのを見せられた。ぼくは冷や汗をかきながら、先生が来ないよう見張り番をしていた。

 あまりぼくは要領がいいほうではない。そのことが毎日少しずつ重荷になっていった。体育では人に迷惑をかけてばかりで、足を引っ張る度に心が引き裂かれるようだった。好かれるのは諦めている。でも、嫌われたくない。完璧にできないまでも、人並みにこなしたい。人並みができない。せめて人に糾弾されない程度に、落ち目のない程度でありたかった。

 なぜか学生証をよくなくした。忘れ物が多い。整理整頓ができない。抜けていると言えばかわいいけれど、脳みそが足りないだけだった。勉強だって最下位付近で、よくヤンキーと二人で居残りをさせられた。三年になっても、高校受験の範囲から居残りが始まった。国語の授業、現代文だって簡単な言葉を辞書を引いて調べる。ダイコウカイ。大航海と書くらしい。ぼくは大後悔だな。何をしなかったわけではないけれど、何もできなかった。もし、時間を巻き戻せても、これが最高だろう。なんとなく辞書に大後悔と落書きをする。意味は「今のぼくのこと」と書く。

 おそろしい、スポーツ大会がやってきた。ぼくとヤンキーは余り物同士でダブルスの卓球だった。彼はうまかったけれど、ぼくは本当に下手だった。サーブもうまくできない。球を返すのなんて一度も出来なかった。もちろん最下位だ。どんどん彼が不機嫌になっていくのが怖かった。自分のどうしようもない、いかんともしがたいところで人に迷惑をかけている。そう思うと泣いてしまった。怒っていた彼は長い間何も言わずにぼくを見てから、なにか言葉を吐き捨てて帰ってしまった。

 帰り道、家に帰りたくなかった。消え入りたかった。なんとなく、乗ったこともない電車の、行ったこともない方面へ行く電車に乗り、終点までいった。見たこともない景色が広がり、とてもきれいに見えた。でも、ぼくが触れられるものではない気がした。遠いところの違う次元の話に思えた。改札も出ずに、目を細めて遠くを見て、飽きたら帰った。

 家に帰ると、母親が怒っていた。なぜそんなに怒っているのかわからなかった。怒ることより、ぼくを貶す口実がほしいのだと思う。なぜこんなに遅かったんだ。連絡さえできないのか。くだらない用事で。勉強もできないくせに。そんなにとろいから小学生の頃いじめられたんだ。一通り、いつものことを言われると、風呂に入り、なにもする気が起きなかったから浴槽から出れなかった。残業から父親が帰ってきて、自分が風呂に入れないから早く出ろと怒鳴る。自分の部屋に逃げ帰ると、暗闇のなかでじっとしていた。携帯であの駅へと行く最終電車を調べる。こっそり、家を抜け出して電車に揺られてみる。改札を出る。田舎だから、泊まるところなんてない。じっと暗闇でうずくまっていると、今までよりずっと自由な気がした。

 警官に見つかり、家に返された。両親にはいつもの罵倒のフルコースを五回繰り返されるくらい怒られた。なにが辛いのか、口下手ながらでも訴えると、両親は疲れたように「私が悪かったって言うんだな?」と聞いた。

 親は何を勘違いしたのか、ぼくは親に不登校を許された。家にいた方が辛いが、それに甘えて自室に引きこもった。子供が縁日で掬う金魚みたいに、ただ死ぬまで飼われているだけだ。興味はない。終業式、午後でいいから荷物を持ち帰ってくれと担任から連絡があった。夕焼け空を高校の制服とは逆に私服のぼくが歩く。引き出しの中の物は多く、持ってきたスーパーの袋には入らなかった。担任にごみ袋をもらってその中に詰める。学生証が出てきたので捨てる。辞書が見当たらない。ヤンキーに時々貸していたし、彼が授業の前に借りてそのままなんだろう。

「先生、そういや、あいつは? あのヤンキーの」

「あー、あいつはもう学校辞めたよ」

 驚くでもなく、当たり前か、とも思っていた。彼が一人で学校にいるところをうまく想像できなかった。うまく馴染めるでもないだろ。どうせ、煙草を吸っているところを教師に見つかったとかだろう。

 荷物を袋に入れ終えて、帰り際、なんとなく彼がいつも煙草を吸っていた場所に寄った。白い壁のはしっこの方に、油性ペンで「大後悔」と書かれていた。

コンビニバイト・キロバイト

 これは私がコンビニバイトをしていた時の話だ。と、言っても今もコンビニバイトをしているから、前の店で働いていた時の話になるのだけれど。

 

 八年間も働いていた、勝手に寄り添うように思っていたコンビニが潰れることになった。当時女子高生だった私は二十五歳に。校則でバイトが禁止されていて、先生の目を盗んで少し遠くのコンビニを選んだものの、そこは先生の家の近くだったらしく、時折疲れたようにハイボールを買っていくのを平均週三で眺めていた。先生は最近禿げてきている。

 八年間も働くと、バイト間でも仲間意識が湧いてくる。私は最後の日くらいはということで、古株のバイトだけで集まろうと考えた。古株は何人か居たが、飲み会に参加するのは私を含めて四人しかいなかった。そのうち二人は夜勤なので、ほとんど話したことはない。もう一人は年上の女性で、どうしたわけか私の勤務時間すべてその人がいて、何勤と言っていいのかわからない人だった。私の仕事始めも仕事終わりも、何も言わずに仕事をしてくれているので、私は毎回「悪いなあ」と思いつつ、「この仕事おねがいします! お先です!」と言ってコンビニから帰ってしまう。そして翌日はその人に「おはようございます」と言いながら仕事に就く。お願いした仕事は片付いている。

「飲み会行きませんか?」

「飲み会?」

「ほら、もうここ潰れちゃうでしょ? だから長い間働いてる人だけ集めて飲もうかなって」

「なんで?」

 なんでと聞かれてたじろいだものの、それなりに寂寥とかエモとかを理由として答える。彼女はわかったのかわからないのか、そのどちらでもないような顔をして、ぼんやりとした目。「この日暇?」とバイトの最終日の日にちのカレンダーを指しながら言うと、「用事はないけど」と言われる。「とりあえず、出席にしとくね!」と押し切った。

 バイトの最終日、もうほとんどすることはなかった。物がない棚の方が多いし、入荷もない。店長の妻が久しぶりに店に来て、売れ残った菓子を持っていってもいいと言う。なるべく多く袋に詰める。店長の妻が世間話か、店の潰れる理由を教えてくれた。客足が遠のいたとか、よくわからない帳簿上の微減で潰れると思っていたのだけれど、そうではなかった。店長が過労で体を壊してしまい、もう店長家族は悔いのない寿命の使い切り方を考えているらしい。と言っても店長の姿を見たことはなかった。私が来る前にはもう体を壊していたらしい。お菓子を袋に詰めていると、万引きをしている気分になったり、コンビニは店長の暗喩で、こうして万引きしている自分はウイルスなのではないかと思ったりした。

「ねえ」

 働いている彼女に声をかける。

「お菓子持ってかないの?」

 店長の妻が「あはは、いいのよ。あの娘は」と言った。

「えっ、でも、あの人クリスマスの後、いつもクリスマスケーキ何個も持って行ってましたよ」

「ああ、あはは、あの娘甘いもの好きなのかもねえ……」

 あの娘かあ。彼女は一体何歳なんだろうか。私が働き始めた時は三十歳くらいに見えたものだが、今でも何一つ変わらず三十歳くらいに見える。バイトを始めた時──つまりは私が若かった頃だが──は歳上の女の人に母性を見出したりして、彼女を見ながら「こんな人が母親だったらいいのになあ」と思っていた。しかし、私も二十五になってしまったので、流石にと思い、そんなことは思わないようにしている。たまにそんなことを思っていたなあと意識すると、なんだか悪いことをしていた気分になって、彼女の眼をまともに見れなくなってしまう。

 何事もなく仕事が終わり、店長の妻がシャッターをおろし、シャッターの上に「閉店しました」の紙を貼る。彼女に「ごめん、お菓子家に置いてきていい?」と言うと、彼女は「うん」と言って、ぼんやりと立ち尽くしている。このままここで待っているのではないか。「ついてきて、飲み会の場所知らないでしょ?」彼女は黙ってうなづいた。「家行くから少し遠回りになるけど、ごめんね」

 

 夜勤のおじさん達は仲が良く、二人でゲラゲラ笑っている。自然と男と女で分かれて話す。一時間、お酒も幾分か飲み、気分も高揚する。

「お酒強いんだね!」

「私は酔わないから……」

「すごいね! じゃあさ、私が酔いつぶれたら、家に送っていってよ! 家、わかるでしょ!」

「うん、いいよ」

「あ、いいの……? もしかして家近かった? 家近くなかったら、いや、別に近くてもわざわざ送り届けなくてもいいからね? あはは、なるべく酔いつぶれないようにがんばるね!」

「うん……」

「もー、私さあ、八年間も働いて、コンビニのことしか知らないわけよ。それがこんなに簡単にぽんとコンビニの外に放り出されちゃうと、不安になっちゃうな。コンビニのことしか知らないのにさ!」

「わたしも、コンビニのことしか知らない……」

「ねー! もうさ、嫌になっちゃうよ」

「……」

「……これから、どうしようね」

「これから?」

「三ヶ月くらいは何もしなくても蓄えで生きていけるけどさ、何をしたらいいのかな。ねえ、これから何するの?」

「私にこれからはないよ」

「? 働かないってこと? いつも働いてたから、蓄えあるの? いーなー!

………………まだ見たところ三十代でしょ? そんなに長い間暮らしていけないでしょ」

「ううん。まだ十歳だよ。終わったらもう私廃棄だから」

 この人電波だったのか、と思うも、酔いが回った頭では危険とは思えない。変わったところを面白く思う部分だけが働いて、笑い飛ばす。

「あはは! なにそれー」

「本当だよ。私は店長が買ったロボットで、十年前に作られたんだ。十年前、店長が体を壊して、まだ療養すれば治るかもしれなかったから、その間だけ働かせようと思って買ったんだって。でも、長引いちゃってね。ロボットで十年って言うと、もうおばあちゃんだよ。私みたいな労働ロボットはね。中古で売られるかもしれないけど、十年前の型だと、まず買い手はいないと思うな」

「どっかで暮らすとかはないの?」

「暮らす? 誰も雇い手がいなかったら、ロボットじゃなくなってしまうの。ロボットの語源は『人の代わりに労働をする』で、労働しなきゃ存在意義、レゾンデートルがなくなっちゃうから」

「どっかでニートしたらいいじゃん」

「働かなかったら、ロボットじゃなくなってしまうでしょう……」

「人間じゃだめなの?」

「人間?」

 彼女は考えたこともなかったというような顔でこっちを見る。

「存在意義がわからない人間になるなんて、御免だわ」

 なんとも言えない話をされて腹が立ったので、「証拠見せてよ」と言う。意地が悪かったかもしれない。彼女は私の手を取り、女子トイレにつれていくと、洋式便器の蓋に私を座らせた。彼女はジーンズをおろす。臍の下、女性器の上に、小さく穴が空いていた。彼女がポケットから、充電ケーブルを取り出す。「穴にはめてみて」恐る恐る穴に差し込むと、それはカチリと音を立てて嵌った。コンセントに挿すほうの端が、ぶらりと股の間で揺れていた。

 席に戻ると、なにがなんだかなんとも言えなくて、ぼうっとしたまま、時間が過ぎてしまった。水をがばがば飲んでも酔いが覚めたのかわからず、なんとなくそれから酒を飲んで意識の外に信じられないことを投げ捨てようとした。なんとなく時間になって、なんとなくお金を払って、なんとなく解散した。

 帰り道、月明かりが私を照らすと、ひやりと酔いが覚めた気がして、脳裏に彼女が廃棄されるイメージが鮮明に描き出された。大きなシャベルだろうか、それとも回転する歯車か、よくわからない物に彼女が押しつぶされる。血は流れないかもしれないけど、彼女がねじ、オイル、その他諸々になっていく。いけない! と思う。でも、飲み屋からどこに行ったのだろう。わからない。スクラップ工場? 店長の家? わからない。どこへ……。とりあえず飲み屋へ戻らなければ、そう思うと飲みすぎたせいの千鳥足が別の意識を持っているように動き、恨めしく思える。くそっ、頭だけ重く膨れ上がったようにバランスが取れない。気分が悪くなって道端に吐く。頭の中でスクラップにされていく彼女が、こちらを眺めている。──暗転。

 気づくと私はガンガンに痛む頭を抱えて、自分の部屋にいた。彼女を探して助けるよりも、家に帰って寝るほうを選んだのか……。情けない。まだ、どこかにいるのかもしれないと思って、立ち上がると、二日酔いが思ったよりも酷くてすっ転んだ。変に転んだせいか、関節が痛む。また立ち上がろうとする。

「まだ酔ってるでしょう。今日は仕事ないんだし、休んでなね」

 彼女の声。疑問に思うのもつかの間、台所からエプロンを付けている彼女が現れる。

「酔いつぶれたら家に送ってよ、って言ってたでしょう」

 そうだった。いつでも彼女は頼み事を断らないのだった。

「ねえ、頼み事があるんだけど」

「なに?」

「お味噌汁飲みたいな。毎日……」

「それは仕事?」

 仕事ということにした。そうしないと、私の元からいなくなってしまうと思ったから。

タイムカプセルのようになりたかった

 たとえば君が今日死んだとして、その死体とぼくが眠ったのなら、朝起きた時、君は明日のぼくと寝ていることになるのだろうか? そのようなことを話した。ぼくたちの間にはもう見栄や洒脱、洗練したといったものはなくなっていて、思っていることをただ並べ、並び替え、戻し、ぐちゃぐちゃになった言葉たちが綺麗な模様を描いているかどうかだけが評価基準だった。密室演劇のように部屋から出ずに、何も起こらないぼくたちの生活はおおよそ人生とは言えず、それは引き伸ばされた一瞬である。ぼくたちはこの生活を始めるにあたって、質のいいカーテンを購入することから始めた。そして、時計を捨てることによって完成した。あらすじだけを読んで、どのような映画かを想像するように生きていたい。きっと、ぼくたちのうち一人が死んだ時にこの一瞬は終わりを告げるのだろう。

 君は少し困った顔をして考えるふりをした。

ひやとい #novel

 日雇いの給料は大体時給千円、七時間働くとして七千円、私は田舎に住んでいるから交通費が往復で二千五百円だ。純利益は四千五百円。交通費の出る仕事は都会の人間に回る。もしくはこっちに回ってきても出る交通費は千円までだ。朝は五時に起きる。電車は五時四十分に来る。七時四十分の送迎バスに乗り、九時三十分には始業。終わるのは十八時、それからバスを待ち、バスによるが駅に着くのはだいたい十九時を回っている。そんな日をやっとの事で月に六日前後こなしている。二万七千円。昼飯を食いに出かけるからだいたい二万三、四千円がのこる。

 一方支出は携帯料金が七千円、心療内科が交通費含めたら一万円、三千円ぶん女性ホルモン剤を買って、残りの三千円で何ができよう。障害者年金はおりなかった。五万九千円あったら、すぐにでも引っ越してやる。ホルモン剤を注射に変える。

 大学は親に中退させられた。本人都合ということになっている。私は未来が全く見えないくせに、奨学金の紙はしっかりと十年後二十年後を見据えている。奨学金は十月から支払いが始まる。一万七千円。年金は払えなかった。猶予してもらっている。

 どうやって生きろというのだ。当日、または翌日、がぎりぎりだ。今週の調子などわからない。これでアルバイトに就けるだろうか? 手首にも首にも傷があっても良い、明日だけで良い、そんな場所は日雇いにしかなかった。背中を押され飛び落ちて、セーフティネットからも漏れたが、ぶち当たった都市もしくは田舎の釜の底では死ねなかった。親に借金が十万ある。どうやって生きよう。私は生きているのか? 乱雑な手捌きで、管をつないで、点滴を打っているのではないか? セルフな延命治療で、いたずらに寿命を縮めているだけではないか? 私の視野が広ければ、公的な延命治療を受け、安泰な生活を送れているのではないか?

 

 うつ病も、性同一性障害も、PTSDも、なんの意味をなすのだ。タグと同じだ。区別のためだけだ。この三つは私に何ももたらさなかった。それぞれ「それは世間一般ではマイナスだ」という刻印を私に残し、金も何も残さなかった。それぞれの医師学会は偉そうに儀式みたいな診断基準と治療方針を決めた。私にはスピリチュアルだなとしか思えない。働こうと思えば調子による、働けば呼ばれるのは男の名前だ、体を売ればフラッシュバックで何もできない。これをどうしろという。国はどうにかしろという。ポスターを作り、自殺はいけないと言う。そんなのイノリと同じだ。タマシイの調子を整えるなんてのと同じだ。カミサマの機嫌を伺うなんてのと同じだ。薬はハイになる。私の信仰対象だ。わたしは働いた後、電車に揺られながら薬を過量服薬する。心療内科でもらった薬がなければ咳止めブロン。唯一、遠くへ行ける瞬間だ。でも電車は家に向かっている。片田舎へ走っている。私は一人暮らしができて、大学に行けて、バンドをやっていて、スカートを履けた数年前が幻のように思える。家に帰るために歩く。私はTEISCOのプリアンプのことを考える。今一番欲しいものだ。でも買えるわけがなかった。一万二千円がどこにあると言うのだ。ビザールギターが一個欲しかった。高円寺まで行って四万五千円。スタジオに行って音を出したかった。一番広い部屋二千円。どこにそんな金があると言うのだ。夢を見てる。私は死ぬほど夢を見てる。バンドをやりたい。学会の儀式に沿って睾丸を切り落としたい。一人暮らしをしたい。若者は夢を見ないのではない。夢を搾取されているのだ。

 名前を変えたい。日雇いはバスに乗る前に名簿と人員の合わせのためにフルネームを言わなければならないのだ。改名のためには少なくとも半年、名前を使ったという証拠がいる。そんなの、この家にいては無理だ。名前を女性名に変えたお薬手帳は破られた。宛先を女性名に変えた宅配便はゴミに捨てられた。私の名前は不良漫画から、適当に取ったという。それならそこまで執着しないで欲しいと思う。

 

 

 家の鍵をこっそり開け、ひっそり風呂に入る。一般人から障害者に飛び降りたくらいでは死ねない。国のスカスカな網に掬われず、家の網に絡まって、イノリの教育で死んではいけないと言われ、死ねばそれは悲しいことです。

 悲しいけれど、悲しいことがしたい。

クサる-ナエる #novel

 どうしたものか、一人暮らしを始めたというのに、世話グセが治らない。アパート全員に蕎麦を配ったかと思えば、寂しいベランダに家庭菜園を始めてしまい、部屋には直したガラクタばかりだ。自分には優しくできないくせに、物にも人にも優しくしてしまう。ぼくはそれが本心ではないことに安心しつつも(本心ならば、それは敗北だからだ)、母性本能的なものが染み付いてしまったのではないかと不安がっている。

 縁を切ろうと思っていたのに、親とは月二で通話している。二ヶ月にいっぺん、食料と種が送られてくる。二ヶ月ごとに、少しずつ、ベランダが埋まる。

 今日はギターを取りに行く日だ。オンボロのギターを2300円で買い、どうにかぴかぴかにしたものの、電装系はてんでわからず、業者に丸投げしたのだった。ぼくはそのうち保健所にでも行って猫や犬でももらってくる気がする。そして甘い声を出して、餌をやり、甘やかす。

 そんな癖がついたのは、弟の面倒を見ていたからだった。弟のことを言うと自然とマイナス評価になる。悪口ではない。ぼくに悪意はない。客観視でも、神の視点でも、マイナスなのだ。どうしようもなく、どうしようもない人間だった。詳細を述べることは弟のことを思ってしない。しかし、恨み節を一つだけ言わせてもらえるなら、家に居た二十二年間で、世話グセがついてしまったのは弟のせいだ。

 神様が(ぼくはあまり神様を信じないけれど、仮に)子孫を残せないぼくに(ぼくは生殖機能がない)、母性本能の発芽や子育ての疑似体験として、弟を置いていったのなら、神様も恨む。ぼくは世話をされたいけれど、世話はしたくない。世話をすると言うのは敗北で、頭を下げて許しを乞うのに似ていると思う。すっぱい葡萄で子育てや世話にそのような思考を抱いているのかも知れない。愛する人との間に未来を遺すことができない。そういう選択肢を取るカップルも、今は増えてきたけれど、そういう選択肢を取るということと、そうせざるを得ないのは別だ。

 

 ぼくは深く考えないようにした。明日からまたバイトだ。今日はバンドの練習。

 昼の薬を飲んだぼくは、日焼け止めを塗って外に出た。隣人が隣の部屋の鍵を開けていた。

「こんにちは」

 隣人は小さな声でおうむ返しをする。急いでドアを閉めたように見えた。なんだっていいさ。駅前のギターショップへ行く。

 当たり前だが、直されたギターはちゃんと音がした。買ってから僕は、弦巻きを変え、裏のバネを変え、サドルを変えた。業者には電装系を全て変えてもらった。捨てられていた子猫をトリマーに預けた気分だ。

 音楽スタジオの予約が残り近づいていたので、走る。階段を駆け上がり、スタジオのドアで一息つく。磨りガラスでない部分から、待合の机が見え、メンバーがまだ一人も来ていないことに気づいた。

「あの、七時からの吉田なんですけど」

「ああ、どうぞ」

 バンドは、楽しい。曲だけは後世に残したいと思う。遺伝子より、影響を残したい。でもそんなバンドになるとは、今の状況では口が裂けても言えなかった。発声練習を軽くして、ギターをチューニングしていると、メンバーがベース、キーボード、ドラムの順で入ってきた。ドラムのセッティングが終わる頃には七時二十五分を回っていた。

「大村(ドラム)、お前がスタジオ代5割もてよ」

「えー!」

 エフェクターを踏んだ。アンプからシャーと音がする。スティックが四回鳴らされる。合奏。

 残り時間が三十分を切った頃、キーボードの佐藤が、録音していいか、と言った。知り合いのプロに聴かせるのだという。張り切って、二曲を演奏した。いい演奏だった。気分良くぼくらはスタジオを後にする。駅までメンバーを見送ると、コンビニに寄って自宅に帰る。

 

 弟が死んだ。スタジオの帰りに電話が鳴った。取り乱し、一旦落ち着きを得たんだろうなという声色で母が弟が死んだことを告げた。二階の窓から落ち、打ち所が悪く、また、気づかれるのも遅かったらしい。ぼくはそれなりに悲痛な思いになる。薬を少しだけ多めに飲んだ。頓服も舌下で溶かした。しかし、手首を切るほどもう若くなかった。急いで荷物をまとめ、夜行バスを予約した。

 バスは半日で地元に着き、そこからは母の運転で一時間かけて実家に着く。

「喪服ないんだけど」

「あー、じゃあコナカ寄るわね」

 軽快なラジオのDJが沈黙を引き立てていた。車の後部座席から弟の臭いがする。

 喪服を適当に買ってもらい、家に着くと昼間の十一時だった。翌日の葬儀のことはよく覚えていない。ルールとマナーに沿った儀式が、海岸を歩くみたいに意味のない感傷を呼んだだけだった。実感は沸かない。父が、弟のものを全部捨てようと言った。棺に入れなかったものはほとんどなかった。卒業証書や卒業アルバムのような、学校関連のものだけだった。本もCDもひとつもなかった。少しだけ広くなった部屋から、弟の落ちた窓を見ると、物がないぶん空が広く見えた。実家には一週間だけ滞在した。弟のものはスーパーの袋三つぶんだった。

 夜行バスに押し込まれる。出発し、まどろんでいると、マナーモードにし忘れたぼくの携帯が鳴った。声を潜めながら電話を取ると、バンドの音源を渡したプロだった。

「あー、君? 吉田くん? 君のバンドねえ、ダメだよ。ギターもっといいの使った方がいいよ。サステインがなさすぎる。リズム隊はフィルのたびにヨレるし、キーボードのメロディと歌メロが合ってないよ。それから……」

 

 家に帰ると、苗はすべて枯れて根は腐っていた。きっと、もう土と同化して、栄養になっているんだろう。

 ぼくらがバンドを辞めても、土にも還らない。