反日常系

日常派

小説

 僕にはないものが多い。夢もないし金もないし将来的なヴィジョンもない健康体でもない。ないものづくしだが、最悪なのはこれでもまだ最低ではないことだ。なにもないということで一から始めたがるが、なにもないことはゼロじゃなくてマイナスだ。始める暇がないくらい、いろんなことに気を付けて生きてる。悪いことを誇るように、滲む血を見せびらかすような生き方はなるべく避けたい。道の真ん中で立ちすくみ、座り込み、心配した誰かが肩を叩き、それでようやく人の顔を見上げるような生き方はやめたい。

 散歩をしていると、さまざまなことを考える。眠る前の決意みたく、すぐに忘れてしまう物事の数々。考えることは消えてしまうから、描写の数々を重ねたい。青色灯が例年より暖かい五月を冷やしてる。鼻水をすすると空気が余分に鼻に入る。公園の回旋塔に手をかけて八割の力で回す。キイキイと軋む声をあげてるのを眺める。

 公園の端っこの木に包帯みたいに白い布が巻かれている。白い布が巻かれている街路樹は害虫が寄ってきて腐りかけているのを隠すためだと聞いたことがある。それが本当なのかはわからない。今となっては誰に聞いたのかもわからない。それでも、細くなった幹とそれに不釣り合いな節張った枝は腐りかけと言われても信じざるを得ない。なんだか、細い木は笹を思い起こさせた。七夕になると現れる、スーパーの端に肩身狭そうに立っている笹。人の勝手な願いを吊り下げられて自分の身を重くしている笹。前の七夕に願い事をあの娘と考えたことがある。スーパーの片隅で願い事を考えたものの、真面目に考えるような若さはもうとうになくなって、あの娘が短冊を睨むようにして考えていたのを見ていた。僕は「健康になれますように」だとか、そんなことを書いたと思う。たぶん。

 あの娘の死が、思ったよりも長く影を落としている。死んでから何ヵ月だろうか。何を見ても考えが同じところにたどり着く。感情の比喩を求めているように現実を見ている。単純に悟ったり、簡単に兆しを結びつけてしまう。前からそういう傾向があったけれど、最近は特にひどい。悟ってしまって、当然なことに帰結したくはない。わかりやすい感傷で本当の気持ちをやり過ごしたくない。白い布を巻かれた木を見て、リストカットみたいだなんて言わなかったのは僕の意地だ。

 歩こう。歩くしかない。他にすることがなくて歩いているんじゃない、他にできることがなくて歩いているんだ。五月なのにどうしてそんな焼けているんだと思う古本色の子供が信号を急かしている。子供の後ろで信号を待つ。渡る。歩いたり外に出たり、いろんなことに目を向けようとしている。何もかもが失敗する度に家の臭いみたいに安心するトラウマを嗅ぐ。新たな恋が実らなかったから前の彼女を思い出すように、二歩歩いて三歩戻る。

 コインランドリーに入る。温い空気とエアコンの送風に目を細める猫。猫は自動ドアが開けられないから自力では出られないのだが、そんなことを気にするでもなくくつろいでいた。回っている洗濯機はなかった。何の気なしに、靴を脱ぎ、靴下を洗濯機に入れた。硬貨を入れて回す。椅子に座って裸足をぶらぶらさせる。コインランドリーの外に酒の自販機があるのを思い出して買う。冷えたコンクリートの凹凸を裸足で感じる。また椅子に座って、足の裏をはたいた。回っていく洗濯機を眺める。靴下だけでは役不足だろうが、不満そうでもなく洗濯機は回る。右回り、左回り。時計回り、半時計回り。半時計回りに時間が巻き戻ったら良いのに。いやいや、そんなことをしてどうする。人は人を助けることはできない。無力さの再確認になるだけだ。

 洗濯機におぼろに自分の影が映る。髪が伸びている。好き放題延びた髪の毛が馬鹿な犬みたいだ。血統書ばかりが高い、とても馬鹿な犬。前に前髪を切ってくれたのはあの娘だった。僕が頼み込んだのだった。自信がないと断ろうとするあの娘に、僕が頼み込んだのだ。その結果、僕は切り揃えられたぱっつんになってしまったのだが、それが面白くて仕方なかった。秘密やエピソードをぶら下げるように歩くのは痛快だった。今では前髪は好き放題伸びて、ばらばらの前髪が顔を隠している。洗濯機に溺れてしまいたい。うまく泳ぐ方法論ばかりが横行して、溺れ方は誰も教えてくれない。溺れ方と掴んだ藁の信じ方。でも、生きることを終わらせるわけにはいかない。終われるということは幸せだが、幸せとは特筆に値しない。鬼を殺したら終わりで、王子様と結ばれたら終わりで、ハッピーエンドのその後は誰も特筆しない。つまらないから。

 考え事をしていると、洗濯機が終了のアラームを鳴らす。靴下を取り出して乾燥機にいれる。靴下にはオレンジの果汁がついていた。汚い部屋に転がったオレンジを踏んでしまったのだ。匂いはないのに汚れだけが取り除けず付きまとっている。回った乾燥機に手をついていると、暖かくなっていって乾燥機が生き返るみたいだ。生き返ったらと想像すると、頭の中で生きていた頃の思い出だけが再放送された。なにも新しい会話はなかった。

「人の死を悼みたいなら、私についておいでよ。死んだ後に蛆が湧くくらいには価値があるつもりだよ」

 ははは。

「名前で呼ばれる野良猫みたいに好かれたいな。名前と鳴き声さえあれば、手垢にまみれた言葉よりも多くの愛が伝えられそうなのにな」

 ははは。

「気が狂ったふりをして、君に甘えてみようかな」

 ははは。

 あの娘は結局、泥を被って汚いことを全部知っているようなふりして、大人の気分ですべてを諦めようとしていた。そんなことが成長ではないと気づかずに。結局、すべてを諦めることができずに、間違いの留守電に遺書をしたためるような後味の悪さを僕に残して死んでいった。むかつくことばかりで、すべての言葉を借りて叱ってやりたい。むかついたり、感傷的になったりの繰り返しを早く消し去ってしまいたい。それが一番の復讐だろう。忘れてもいいと思う前に忘れてやる。

 裸足でコンビニに行き、ハサミを買う。コインランドリーに戻る。乾燥機に映るおぼろな自分の影を見ながらハサミで前髪を切った。乾燥の終わった靴下とハサミをゴミ箱に捨てて、裸足に靴を履いて帰る。家に帰り、見慣れた絶景の写真の載った十二月のカレンダーを捨てる。新しいカレンダーを張り見慣れない絶景の写真の五月のカレンダーを見る。

 

小説

 思いつきで小説を書きました。よくある掃き溜めだけを見て、大人になったつもりの奴の書く小説みたいだとは思うんですけど、吐き出しておかないと立てる腹も下しそうなので吐き出しておきます。

 

 

 

 よくもまあ、こんなに多くの売女がいるもんだ。インターネットの波を溺れるように見渡せば、サメより多く、サンマより少ないくらいの量で風俗嬢がいる。口を大きく開けて呼吸のようにコミュニケーションという餌を待ってる。
 僕の身の回りにも売女がいる。僕には周りが売女になっていく呪いがかかっているのかとさえ思えるが、自分が過ごしている現在地が掃き溜めだから売女がいると思った方が近いだろう。

 街を歩けば雪が降ってる。僕の地元は千葉だけれど、千葉の港と東京じゃ大違いだ。海水温度は気温の二、三ヶ月後ろを着いてくるので、東京では雪の降る十二月に、海水が気温を温めて漁港に雪は降らない。
 田舎から東京(本当のことを言えば、住んでるのは東京から数駅出た埼玉だが、そのくらいの誤差は田舎人には東京の範囲内だ)に出てきて、季節というものを知った。田舎には季節がない、と言いたいわけではないけれど、田舎には季節を楽しむような生活はない。車に乗り込む数分しか季節がなく、車窓に映る何もない町には自然も銭湯の富士山と同じ色彩で古ぼける。

 あの娘に呼ばれた。いつものようにラインを適当に返すと、当て所ない散歩の足を急転換して、最寄駅に向かう。最寄り駅までの数分、マフラーに顔を埋める。癇癪持ちのジジイのように体を丸めると、なるべく転ばないよう地面に垂直に足を下ろし歩く。雪を割く、スナック菓子を食べてるみたいな音をリズムよく鳴らす。最寄り駅はいつもより閑散としていた。電光掲示板には「大雪のために運休。復旧の見通しは立っていない」との意。まあ、いいか。何するでもない。携帯は見たくなかった。とりあえず改札の中に入り、ホームにある喫茶店に入る。
 金を払い、コーヒーとホットドッグを持って店内を見渡してから、人が多くて座れないことに気づいた。相席をお願いするしかない。一番まともそうな老婆に話しかける。
「すいません。ここ座っていいですか?」
「あー、いいですよ。今荷物どかすからね」
 老婆は椅子に立てかけていたバッグを自分の膝の上に置き、テーブルの上に散乱していた物を肘より先で自分の方に引き寄せた。
「どこかへ、お出かけですか?」
「そうですね……友達の家に行きます」
「わざわざこんな日にねぇ……」
「こんな雪が積もるとは思いませんでしたよ」
 老婆は目を開いた後に、細く弓状にして笑った。その老婆の癖なのだろうか。けれど、懐かしい感じがした。
 老婆は僕がホットドッグを食べるのを見ていた。食べ終わると、
「老眼鏡を忘れちゃって……新聞を買ったまではいいんだけどねえ。新聞、なんか面白いのがあるか教えてくれない?」
 と言って僕に新聞を押し付けた。久しぶりに新聞を読む。新聞のインクが暖房の暖かい匂いと混ざって気持ちが悪い。僕は新聞を小さく開くと、なるべく話の種になりそうなくだらない三面記事を探した。
「北京の動物園でホッキョクグマが逃げちゃったらしいですよ。閉園後に、鍵を壊して逃げて、翌日の朝、猿の檻の前で捕まったらしいです」
「あっははははは。なんだか絵本の中の世界みたい」
「いやあ、猿も怖かったんじゃないですかね。ははは。夜寝てたらすぐ側にホッキョクグマが居て」
「違うと思うわ。きっと、ホッキョクグマと猿は夜中に鳴き声で会話してたの。それで顔はわからないけれど、惹かれあって、ついに脱走して一目会いに行ったんだわ」
「なるほど……そう考えるとロマンチックですね」
「きっとそうよ。思ってるよりも劇的だと思うことで、世界は劇的に変わるのよ」
「あと、なにか面白そうなニュースはあるかな……」
 僕の目が新聞を滑り、手がペラペラと新聞をまくる。そうしていると、ホームに駅員の放送が流れる。
「運行再開の目処が立ちました。十三時、十三時ちょうどにこの駅の二番線に電車が来ます」
 時計を見ると十二時四十七分。ここは四番線ホーム。
「電車来るみたいですね。出ます?」
「いえいえ、あたしはそんなに急いでないから。きっと、すぐだと人が多いでしょう。電車の中。もう少しゆっくりしてから行きますよ」
「そうですか、じゃあ僕は二番線に行きますね。それじゃあ」
 老婆に新聞を渡す。折りたたんだ新聞の一面に、「過激派集団がテロ予告。不要不急の外出は控えて」と書いてあったのが目についた。ホームからホームへと階段を上り下りしている時に、その文字が本当だったのか、なにかの空目じゃないのか、そもそもその新聞の記事を見たという記憶は正しいのかと考えていた。そんなことが自分の国で起こると思えず、そんなことに自分が巻き込まれるとも思えなかった。あまり考えないことにした。寒くて自販機でホットコーヒーを買う。コートのポケットにコーヒーを突っ込んでカイロ代わりにする。電車が来た。乗り込む。電車の中は空いていて、この混雑具合なら構わないだろうとコーヒーを開けて飲んだ。
 電車の中ではなぜか新聞を読んでいる人が多かった。窓から外を見ようとしたけれど、窓は結露で曇っていた。子供が窓に指で描いたであろう星マークがまた新たな結露で消えかかっている。随分と時間がかかったけれど、あの娘からのメッセージはない。バイブレーションがポケットを揺らしている感覚がなかった。そして、画面を開いてわざわざ確かめたくもなかった。なんだかすべてが僕への暗示みたいに思えて頭から血が引く。乗ってきた老人が缶の焼き鳥を開けた。爪楊枝でほじくるように食べている。メロンソーダを飲んでいる。僕の目がカメラになって、ズームで口元を写してるみたいだ。目を閉じても音が聞こえる。だめだ。iPodを取り出して、大きいヘッドホンをかけて、ビル・エヴァンスを聴く。

 なるべくすべてに干渉されないように改札を出る体を丸めて足早に歩く。あの娘のマンションの方へ向かおう。そう思っていたのに、長身の黒人が僕の肩を叩いた。ヘッドホンを取る。
「なんですか?」
「お祈りさせてください」
「いらないです」
「少しで済みますので」
 すの発音が日本人とは少し違うなと思う。しかし、そんな些細なことも頭に入れたくなくて、全速力で走る。走れば着いてこないことも、もう着いてきてないこともわかっているのになんだか怖くなって結局マンションまで走って着いてしまった。電子キーのナンバーを押す。走った後だから、心臓がばくばくして、エレベーターの中で息を整えた。心臓がうるさくなくなってから、iPodが違うアルバムを流していることに気づいた。これは……キャロルキングか。ヘッドホンを外し、ドアを開ける。
「おい、入るぞ」
 返事はない。カーテンが締まっていて、部屋全体が暗い。浴室だけ灯りがついていて、そこから光が漏れている。
 浴室に入る。あの娘が死んでいた。浴槽は血が水で薄まったのか、水が血で薄まったのかという感じで、安物の赤ワインみたいな嘘っぽい赤色に塗れていた。僕は浴槽に腰かけるとなんとなく、表情や肌艶から眠っているのではないことを悟った。おそらく――というより十中八九――一命を取りとめるのを狙って失敗したのだろう。自殺未遂の失敗、自殺の成功……。
 世界からの暗喩は僕のことではなかった。事象を告げているだけだった。ほっとしたような、混乱したような気分で身を固く硬直させる。これから、悲しみがくる。そうでなくとも更なる混乱がくる。おそらく、どちらもやってくる。どうしようもない。身を固めて過ぎ去るのを待つことしかできない。しばし目をぎゅっと閉じていると、浴室の換気扇が一定の音をずっと維持しているのが気になった。一旦固まるのをやめて換気扇を止めよう。目を開けると散乱した浴室が再び現れる。封の開いた煙草、からっぽの酒瓶、薬のゴミ、血に塗れた彫刻刀。そして動かずにそのままの死骸。ふーーっと息を吐く。吐ききって、吸ってを繰り返す。なんとなく、煙草を吸い始めようかと思った。やり過ごすには物事を機敏やきっかけと思い込むことが必要な場合がある。転がっている煙草を口にくわえる。ライターは? 見当たらなく、リビングへと向かう。机の上のライターを見つけ、煙草に火をつける。恐る恐る息を吸い込むと、思いっきりむせた。背を丸くして、息を吐瀉物のように吐き出す。そして、もう一度もう二度、と吸っていくうちに煙草の匂いがいつもの匂いではないことに気づいた。不意にやってきた暗喩や兆候が僕を脅かした。しゃがんで身を急いで固めると、切り忘れた換気扇がうるさく響いている。

1000年後の日記

 人間は人間自身の認識において、これから特に本質を変化させることがないだろうなという希望的とも悲観的とも言える推測をぼくは持っていて、これを希望的と捉えるならヒューマニズムかと思う。自我の範囲は科学がどうこういう問題ではなく、やはり人間が信じたい範囲に収束するし、台頭してくる宗教のトップは往々にしてそれをわかっている。

 人間が信じたいところによる自我は、科学に裏切られ続け、もうほとんど信仰に近く、アホのヒューマニズムや道徳主義という宗教は未だに人間と猿は別物で、脳や魂を結びつけ、ソクラテスを肥らせることは難しいと言い続ける。

 ほとんどの国の信仰のご多分に漏れず、我が国も人に自我と許す限りの自由を与える。火星では電気と化学物質で操られた人間が幸せそうにしているというのに。

 

 この自我と道徳の戦いをぼくは六百年かそこら続けている。ある種の自由である自殺(これも火星では電気と化学物質で制御出来ている!)はこの国ではもちろん許されていない。一部分では許され、核の部分では禁じられている、と言った方が正しいかもしれない。これから本当に自分が生きたいと思えるのかと思う。そもそも、もう終わりかけで残った部分のほとんどが信仰の一部である心理学精神医学をぼくは信仰できない。

 新しい道徳は思いやりを半ば凶器に変えて、科学の運用を始めた。死者を生き返らせ始め、また自我と道徳の許す範囲で放し飼いをした。つまり、ぼくのような極めて悲観的な人間は、代わり映えのない世界を悲観的に生き続けなければならなくなった。もちろん楽観的な人間はずっと楽しく生きる。もちろんそんな人間がいたらの話だが。世界をどう見るかは自我の問題とされているから、ぼくは楽観的になるべく努力をするべきなんだと思う。

 自殺志願者は短いリードに繋がれた犬みたいなもので、本当に人生を謳歌、賛美できるまでをこの閉鎖病棟で暮らす。私の十四代前の記憶と比べれば、以前のような厳しい規則はなくなったようだ。それは命に価値がなくなったことを意味している。六百年前はカーテンすらもなかったこの部屋だが、今ではカミソリすらある。つまりは死ぬことは自由だが、生きることは強制なのだ。命という形式よりも、命の捉え方で上の人間に忠誠を見せびらかさなければならない。

 昔の人間から見たら、ユートピアは火星と地球どちらで、ディストピアはどちらなのだろうか? はたまた、どちらも・・・・・・。ぼくたちは物が見えるようになるたびに、より貧困さを増していく。水を探せば探すほど辺り一面が砂場だとわかる場所で遭難を続けている。

こうかいしたこと

 高校に入ってからというものの、期待していたわけではないけれど良いことも悪いこともなかった。まあ、前と比較して悪いことがないということだから、ずっとマイナスを低空飛行していて、慣れているだけかもしれない。

 友達と言えるような人はいない。一人、のけ者が集まるように、ぼっちのヤンキーがぼくに目をつけていた。一応、この高校はすこし頭のいい部類には入るから、不良なんて他にいない。彼は休み時間の度にぼくを呼び出し、すこし話をしたり、ワックスをつけて髪を立たせたりしていた。毎週、なにか校内の備品を壊すところを見せて笑っていた。ぼくも、何を言っていいのかわからないからとりあえず笑っていた。昼休みには校舎の人が来ないところで煙草を吸うのを見せられた。ぼくは冷や汗をかきながら、先生が来ないよう見張り番をしていた。

 あまりぼくは要領がいいほうではない。そのことが毎日少しずつ重荷になっていった。体育では人に迷惑をかけてばかりで、足を引っ張る度に心が引き裂かれるようだった。好かれるのは諦めている。でも、嫌われたくない。完璧にできないまでも、人並みにこなしたい。人並みができない。せめて人に糾弾されない程度に、落ち目のない程度でありたかった。

 なぜか学生証をよくなくした。忘れ物が多い。整理整頓ができない。抜けていると言えばかわいいけれど、脳みそが足りないだけだった。勉強だって最下位付近で、よくヤンキーと二人で居残りをさせられた。三年になっても、高校受験の範囲から居残りが始まった。国語の授業、現代文だって簡単な言葉を辞書を引いて調べる。ダイコウカイ。大航海と書くらしい。ぼくは大後悔だな。何をしなかったわけではないけれど、何もできなかった。もし、時間を巻き戻せても、これが最高だろう。なんとなく辞書に大後悔と落書きをする。意味は「今のぼくのこと」と書く。

 おそろしい、スポーツ大会がやってきた。ぼくとヤンキーは余り物同士でダブルスの卓球だった。彼はうまかったけれど、ぼくは本当に下手だった。サーブもうまくできない。球を返すのなんて一度も出来なかった。もちろん最下位だ。どんどん彼が不機嫌になっていくのが怖かった。自分のどうしようもない、いかんともしがたいところで人に迷惑をかけている。そう思うと泣いてしまった。怒っていた彼は長い間何も言わずにぼくを見てから、なにか言葉を吐き捨てて帰ってしまった。

 帰り道、家に帰りたくなかった。消え入りたかった。なんとなく、乗ったこともない電車の、行ったこともない方面へ行く電車に乗り、終点までいった。見たこともない景色が広がり、とてもきれいに見えた。でも、ぼくが触れられるものではない気がした。遠いところの違う次元の話に思えた。改札も出ずに、目を細めて遠くを見て、飽きたら帰った。

 家に帰ると、母親が怒っていた。なぜそんなに怒っているのかわからなかった。怒ることより、ぼくを貶す口実がほしいのだと思う。なぜこんなに遅かったんだ。連絡さえできないのか。くだらない用事で。勉強もできないくせに。そんなにとろいから小学生の頃いじめられたんだ。一通り、いつものことを言われると、風呂に入り、なにもする気が起きなかったから浴槽から出れなかった。残業から父親が帰ってきて、自分が風呂に入れないから早く出ろと怒鳴る。自分の部屋に逃げ帰ると、暗闇のなかでじっとしていた。携帯であの駅へと行く最終電車を調べる。こっそり、家を抜け出して電車に揺られてみる。改札を出る。田舎だから、泊まるところなんてない。じっと暗闇でうずくまっていると、今までよりずっと自由な気がした。

 警官に見つかり、家に返された。両親にはいつもの罵倒のフルコースを五回繰り返されるくらい怒られた。なにが辛いのか、口下手ながらでも訴えると、両親は疲れたように「私が悪かったって言うんだな?」と聞いた。

 親は何を勘違いしたのか、ぼくは親に不登校を許された。家にいた方が辛いが、それに甘えて自室に引きこもった。子供が縁日で掬う金魚みたいに、ただ死ぬまで飼われているだけだ。興味はない。終業式、午後でいいから荷物を持ち帰ってくれと担任から連絡があった。夕焼け空を高校の制服とは逆に私服のぼくが歩く。引き出しの中の物は多く、持ってきたスーパーの袋には入らなかった。担任にごみ袋をもらってその中に詰める。学生証が出てきたので捨てる。辞書が見当たらない。ヤンキーに時々貸していたし、彼が授業の前に借りてそのままなんだろう。

「先生、そういや、あいつは? あのヤンキーの」

「あー、あいつはもう学校辞めたよ」

 驚くでもなく、当たり前か、とも思っていた。彼が一人で学校にいるところをうまく想像できなかった。うまく馴染めるでもないだろ。どうせ、煙草を吸っているところを教師に見つかったとかだろう。

 荷物を袋に入れ終えて、帰り際、なんとなく彼がいつも煙草を吸っていた場所に寄った。白い壁のはしっこの方に、油性ペンで「大後悔」と書かれていた。

コンビニバイト・キロバイト

 これは私がコンビニバイトをしていた時の話だ。と、言っても今もコンビニバイトをしているから、前の店で働いていた時の話になるのだけれど。

 

 八年間も働いていた、勝手に寄り添うように思っていたコンビニが潰れることになった。当時女子高生だった私は二十五歳に。校則でバイトが禁止されていて、先生の目を盗んで少し遠くのコンビニを選んだものの、そこは先生の家の近くだったらしく、時折疲れたようにハイボールを買っていくのを平均週三で眺めていた。先生は最近禿げてきている。

 八年間も働くと、バイト間でも仲間意識が湧いてくる。私は最後の日くらいはということで、古株のバイトだけで集まろうと考えた。古株は何人か居たが、飲み会に参加するのは私を含めて四人しかいなかった。そのうち二人は夜勤なので、ほとんど話したことはない。もう一人は年上の女性で、どうしたわけか私の勤務時間すべてその人がいて、何勤と言っていいのかわからない人だった。私の仕事始めも仕事終わりも、何も言わずに仕事をしてくれているので、私は毎回「悪いなあ」と思いつつ、「この仕事おねがいします! お先です!」と言ってコンビニから帰ってしまう。そして翌日はその人に「おはようございます」と言いながら仕事に就く。お願いした仕事は片付いている。

「飲み会行きませんか?」

「飲み会?」

「ほら、もうここ潰れちゃうでしょ? だから長い間働いてる人だけ集めて飲もうかなって」

「なんで?」

 なんでと聞かれてたじろいだものの、それなりに寂寥とかエモとかを理由として答える。彼女はわかったのかわからないのか、そのどちらでもないような顔をして、ぼんやりとした目。「この日暇?」とバイトの最終日の日にちのカレンダーを指しながら言うと、「用事はないけど」と言われる。「とりあえず、出席にしとくね!」と押し切った。

 バイトの最終日、もうほとんどすることはなかった。物がない棚の方が多いし、入荷もない。店長の妻が久しぶりに店に来て、売れ残った菓子を持っていってもいいと言う。なるべく多く袋に詰める。店長の妻が世間話か、店の潰れる理由を教えてくれた。客足が遠のいたとか、よくわからない帳簿上の微減で潰れると思っていたのだけれど、そうではなかった。店長が過労で体を壊してしまい、もう店長家族は悔いのない寿命の使い切り方を考えているらしい。と言っても店長の姿を見たことはなかった。私が来る前にはもう体を壊していたらしい。お菓子を袋に詰めていると、万引きをしている気分になったり、コンビニは店長の暗喩で、こうして万引きしている自分はウイルスなのではないかと思ったりした。

「ねえ」

 働いている彼女に声をかける。

「お菓子持ってかないの?」

 店長の妻が「あはは、いいのよ。あの娘は」と言った。

「えっ、でも、あの人クリスマスの後、いつもクリスマスケーキ何個も持って行ってましたよ」

「ああ、あはは、あの娘甘いもの好きなのかもねえ……」

 あの娘かあ。彼女は一体何歳なんだろうか。私が働き始めた時は三十歳くらいに見えたものだが、今でも何一つ変わらず三十歳くらいに見える。バイトを始めた時──つまりは私が若かった頃だが──は歳上の女の人に母性を見出したりして、彼女を見ながら「こんな人が母親だったらいいのになあ」と思っていた。しかし、私も二十五になってしまったので、流石にと思い、そんなことは思わないようにしている。たまにそんなことを思っていたなあと意識すると、なんだか悪いことをしていた気分になって、彼女の眼をまともに見れなくなってしまう。

 何事もなく仕事が終わり、店長の妻がシャッターをおろし、シャッターの上に「閉店しました」の紙を貼る。彼女に「ごめん、お菓子家に置いてきていい?」と言うと、彼女は「うん」と言って、ぼんやりと立ち尽くしている。このままここで待っているのではないか。「ついてきて、飲み会の場所知らないでしょ?」彼女は黙ってうなづいた。「家行くから少し遠回りになるけど、ごめんね」

 

 夜勤のおじさん達は仲が良く、二人でゲラゲラ笑っている。自然と男と女で分かれて話す。一時間、お酒も幾分か飲み、気分も高揚する。

「お酒強いんだね!」

「私は酔わないから……」

「すごいね! じゃあさ、私が酔いつぶれたら、家に送っていってよ! 家、わかるでしょ!」

「うん、いいよ」

「あ、いいの……? もしかして家近かった? 家近くなかったら、いや、別に近くてもわざわざ送り届けなくてもいいからね? あはは、なるべく酔いつぶれないようにがんばるね!」

「うん……」

「もー、私さあ、八年間も働いて、コンビニのことしか知らないわけよ。それがこんなに簡単にぽんとコンビニの外に放り出されちゃうと、不安になっちゃうな。コンビニのことしか知らないのにさ!」

「わたしも、コンビニのことしか知らない……」

「ねー! もうさ、嫌になっちゃうよ」

「……」

「……これから、どうしようね」

「これから?」

「三ヶ月くらいは何もしなくても蓄えで生きていけるけどさ、何をしたらいいのかな。ねえ、これから何するの?」

「私にこれからはないよ」

「? 働かないってこと? いつも働いてたから、蓄えあるの? いーなー!

………………まだ見たところ三十代でしょ? そんなに長い間暮らしていけないでしょ」

「ううん。まだ十歳だよ。終わったらもう私廃棄だから」

 この人電波だったのか、と思うも、酔いが回った頭では危険とは思えない。変わったところを面白く思う部分だけが働いて、笑い飛ばす。

「あはは! なにそれー」

「本当だよ。私は店長が買ったロボットで、十年前に作られたんだ。十年前、店長が体を壊して、まだ療養すれば治るかもしれなかったから、その間だけ働かせようと思って買ったんだって。でも、長引いちゃってね。ロボットで十年って言うと、もうおばあちゃんだよ。私みたいな労働ロボットはね。中古で売られるかもしれないけど、十年前の型だと、まず買い手はいないと思うな」

「どっかで暮らすとかはないの?」

「暮らす? 誰も雇い手がいなかったら、ロボットじゃなくなってしまうの。ロボットの語源は『人の代わりに労働をする』で、労働しなきゃ存在意義、レゾンデートルがなくなっちゃうから」

「どっかでニートしたらいいじゃん」

「働かなかったら、ロボットじゃなくなってしまうでしょう……」

「人間じゃだめなの?」

「人間?」

 彼女は考えたこともなかったというような顔でこっちを見る。

「存在意義がわからない人間になるなんて、御免だわ」

 なんとも言えない話をされて腹が立ったので、「証拠見せてよ」と言う。意地が悪かったかもしれない。彼女は私の手を取り、女子トイレにつれていくと、洋式便器の蓋に私を座らせた。彼女はジーンズをおろす。臍の下、女性器の上に、小さく穴が空いていた。彼女がポケットから、充電ケーブルを取り出す。「穴にはめてみて」恐る恐る穴に差し込むと、それはカチリと音を立てて嵌った。コンセントに挿すほうの端が、ぶらりと股の間で揺れていた。

 席に戻ると、なにがなんだかなんとも言えなくて、ぼうっとしたまま、時間が過ぎてしまった。水をがばがば飲んでも酔いが覚めたのかわからず、なんとなくそれから酒を飲んで意識の外に信じられないことを投げ捨てようとした。なんとなく時間になって、なんとなくお金を払って、なんとなく解散した。

 帰り道、月明かりが私を照らすと、ひやりと酔いが覚めた気がして、脳裏に彼女が廃棄されるイメージが鮮明に描き出された。大きなシャベルだろうか、それとも回転する歯車か、よくわからない物に彼女が押しつぶされる。血は流れないかもしれないけど、彼女がねじ、オイル、その他諸々になっていく。いけない! と思う。でも、飲み屋からどこに行ったのだろう。わからない。スクラップ工場? 店長の家? わからない。どこへ……。とりあえず飲み屋へ戻らなければ、そう思うと飲みすぎたせいの千鳥足が別の意識を持っているように動き、恨めしく思える。くそっ、頭だけ重く膨れ上がったようにバランスが取れない。気分が悪くなって道端に吐く。頭の中でスクラップにされていく彼女が、こちらを眺めている。──暗転。

 気づくと私はガンガンに痛む頭を抱えて、自分の部屋にいた。彼女を探して助けるよりも、家に帰って寝るほうを選んだのか……。情けない。まだ、どこかにいるのかもしれないと思って、立ち上がると、二日酔いが思ったよりも酷くてすっ転んだ。変に転んだせいか、関節が痛む。また立ち上がろうとする。

「まだ酔ってるでしょう。今日は仕事ないんだし、休んでなね」

 彼女の声。疑問に思うのもつかの間、台所からエプロンを付けている彼女が現れる。

「酔いつぶれたら家に送ってよ、って言ってたでしょう」

 そうだった。いつでも彼女は頼み事を断らないのだった。

「ねえ、頼み事があるんだけど」

「なに?」

「お味噌汁飲みたいな。毎日……」

「それは仕事?」

 仕事ということにした。そうしないと、私の元からいなくなってしまうと思ったから。