反日常系

日常派

青春映画もどき

 酸っぱい葡萄じゃないけれど、もうほとほと彼女には懲りた。ぼくはいつも届かなくなってから嫌いになる。付き合っていた日々を思い出せば、それは輝かしい記憶ばかり思い浮かぶけれど、絨毯に残った血の染みを見ると、枕元でわざとらしく手首を切っているあの笑みを思い出して身震いしてしまう。それでもたまに彼女のSNSアカウントやら、ブログやらを見てしまう。その度に酸っぱい葡萄だと自分に言い聞かせるが、その酸っぱさのせいか、欲望のせいか、涎が出る。たまにLINEが来るけれども、その度にうんざりする自分と期待する自分がいて、その二人が喧嘩し始めるので疲れてしまう。することも無く彼女のブログを開いた。ブログのタイトルは彼女が好きな、無駄にエロいバンドの歌詞から取られている。精神を病んだ風の人々が好みそうな要素だけをばらまいた、見せかけの不条理でしかないと思うのだが、ライブ映像を見れば夏フェスだというのに長袖のファンたちが、先を争うように手を掲げている。ぼくの感性がおかしいのだと、半ば自慢げに独りごちると適当にギターを弾いた。

 ギターの弦は新しかったが、放置されたベースの弦は錆び付いていた。このギターは元々、ぼくのバンドのギターボーカルの物だ。急に「結婚しようと思う。バンドはやめる。申し訳ない」とだけ書かれた手紙とともに着払いで送られてきたのだった。腹も立たなかった。もともと活動してるのかもわからなかったし、ベース担当のぼくは練習もせず、ベースは彼女のおもちゃだった。今は誰も弾く人がいない。ドラムとは話していないが、解散は暗黙の了解だろうと思う。

 彼女は報われない幼少時代を過ごしたことが、この上ないアイデンティティのようだった。どうでもいい不幸話がぼくの耳にボレロのように何回も入ってきたのを覚えている。いつだって再生できる。どこから切っても同じ金太郎飴。不幸が人間を差別化するというのが彼女の持論だったが、彼女は不幸によって類型化された症例Aでしかなかった。まるでアクセサリーかメリケンサックのように身につけた病名になんの意味はないのだ。あるとすれば簡単に男を引き寄せることが出来るくらいだろう。男だって分別の書いてあるゴミの方が捨てやすい。病人を捨てることは、コツを得ればそう難しいことではないのだ。

 ブログには好きなバンドから学んだであろう露骨な性描写、ありきたりな不条理が並んでいる。たまに書く小説には酷くありきたりな多様性が見えて嫌になった。ゲイの夫婦の話なんか今更書いたって、何一つ作品を彩るものはないだろう。異様のシンボルとして使われるセクシャリティを思う。

 

 そんなことをしている場合ではないのだった。バンド友達から、「次の主催ライブ企画に出てくれないか」と頼まれていたのだ。バンドも解散したばかりで、断ろうと思ったのだが、一週間後に急に出てくれと言われて出るバンドもなく、また、友人がそう人付き合いに長けた人物ではないことは承知だったので、なんとなく引き受けてしまった。ぼくは喉が弱く、歌が歌えないので、ボーカルだけでも探さなければならない。一からどころかゼロから始めなければならないが、引き受けた時はバイトを辞めたばかりで時間が有り余っているからなんとかなると思っていた。よくよく考えれば、時間が有り余っているのはぼくだけだった。みんなは社会の歯車として、時計の歯車に沿って、地球の自転に乗りながら、忙しい日々を過ごしている。

 悲しいことに、声をかけられる暇そうな人間と言ったらドラムと彼女しかいなかった。彼女はどうせ週に一回体でも売れば生きていける気楽な身分(本人はこれみよがしに身につけた不幸を大切に扱うが、ぼくにとってはただの裸一貫の気楽だ)なんだし、ドラムはまあ忙しかった時を見たことがないので多分平気だろう。急いでグループLINEを作り、理由を説明した。ドラムは乗り気ではなかったが、彼女は意外にも乗り気だった。本番まで日にちがなかったので、とりあえず当日深夜練のスタジオを取った。

 酷い出来だった。前のバンドの曲からベースを抜き(ぼくがベースからギターに変わった)、男声から女声へ変えただけなのだから、当たり前だった。エアコンは効いてるのかわからず、扇風機はドラムにだけ向いていたので、ぼくと彼女は汗だくになった。彼女の頬には別れた時と変わらない長さの髪が汗でへばりついていた。鏡を見ると自分の髪の毛は伸びきって、髪の毛のおばけみたいだった。コードを変え、キーを変え、テンポを変え、ようやく二曲を幼女の歌うラモーンズのような出来にした所で休憩を取った。部屋から一歩外に出ると、店員向けの真新しいエアコンが汗を冷やし、眠った犬みたいな店員が曖昧な挨拶をする。他のスタジオからはまともなバンドサウンドが聞こえてきて、自分らの、思い出作りみたいな演奏も漏れているのかと思うととても恥ずかしくなった。自販機で五百円玉を入れ、ジュースを買うと、隣に彼女がいて、お釣りが出てくる前に素早くボタンを押された。ボタンを押す際に彼女の頭皮の匂いがして、安心した。

 バンド練習が終わり、ドラムは車で帰ってしまったので、ぼくと彼女は二人で夜をひきずった街を駅まで歩くことにした。途中、ホテルに誘われたが、断った。