保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

日記

 イヤホンが壊れたとか、どうでもいいことしか書くことができない。重大なことは多くの説明を必要とするし、そのための気力すら今のぼくには湧いてこない。ぼくにはさしたる思考もない。あるとすれば、人それぞれという諦観で、それ故に人に自分の意見を表明することの諦めがあり、どうしようもないという気持ちだけが渦巻いている。

 言いたいことは一つもない。聞いてくれるものでもないだろう。部屋で延々と言葉をこねくり回しているが、中身はない。感情を文章にしてみたらと提案され、久しぶりにブログを書いている。そもそもぼくに感情があるのだろうか。ありきたりな厨二病でこれを言ってるのではなく、ぼくは数時間前何を考えていたかが全く思い出せないのだ。ただ、頭が空っぽなんだと思う。馬鹿と言うより、白痴だ。日がな日中スマホをいじって、目が疲れれば眠くなって、我に帰ればさみしくなる。腹が減ればスーパーまでの170mを歩き、まるで、金の計算ができる猿だ。生きる意味も価値もない。生きる価値なんて客観的なものに生死を任せる気にはならないけれど、意味は主観だ。意味を執拗に求めると自壊しかなく、だましだましでみんな生きているのだろうか。しかし、生きる意味に生死を賭す価値を見出すかどうかは主観なのだ。つまりはみんなが意味がない人生を生きることを享受していようと、ぼくが意味のない人生を生きることを享受できなければ意味がないのだ。

 内面の話は楽だ。定型の反省や自己嫌悪にいつも陥るクリシェ。反省猿の系譜を持った人生。しかし、外の話はそうもいかない。説明と動きがある。ぼくはもう少しも動きたくない。現実と現在を享受して生きていきたい。未来に夢を見たり、現実を獲得しようともがきたくない。孤独や想像の力を高めて、自家中毒にもならず、骨になっていきたい。