保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

自分らしくってなんなのだろうか

 キャスで話したことをまとめたくて書きます。

 自分の性自認とかいろいろ、セクシャルマイノリティーに属しているのだけれどその界隈で掲げられている「自分らしく」ってなんなのだろうかとよく思う。自分固有のものってない気がしている。玉ねぎの皮を剥くみたく、最終的には何も残らないのでは? 自分というものの絶対性から疑い始めているけれど、自分らしくとは自分のしたいようにするではなく、他人に曲げられている部分をなくしていくことのように思える。だからぼくは疑念に疑念を重ねて、他者との交わりがある部分全てを切り捨てることになってしまう。あるいは全く新しい方向に舵を切るか。自分らしくとは無意識の自分を愛することだと思うけれど、無意識を意識するとは禅問答だ。今思ったけれど、ゲイやレズやバイは一貫しているというかある程度わかりやすい。ぶれることがなさそうに思える。外をどう見るかであって、外があって、外を見ている自己を見つめるという順序だからだ。ぼくはトランスジェンダーで、自己があって自己を見つめるという、分裂症というか幽体離脱的。ここがトランスジェンダーとか性同一性障害のわかりにくいところ説明しづらいところに直帰しているのではないかと思った。

 自分らしくにとらわれすぎて、人と関わらない状態が長い。人と自分らしく関わるができないし、人といる状態は自分らしくないのではと思ってしまう。閉鎖病棟で「セクマイの会合とかには行かれないのですか?」と言われたけれど、この性分のせいで行けない。それに自問自答が続いているから、この状態で人に会っても何も話すことができない。セクマイで集まるとあるあるネタしか話すことがないので(それはぼくが人にすり合わせる方法でしかコミュニケートできないからなのですが)、この状態では何も話せないし、そもそもあるあるネタで「わーあるあるー」って言う話ってもう話したら終わりというか、わざわざこういう場ならタメになる話を聞きたい建設的な話をしたいと思ってしまう。だって趣味の集まりとかなら趣味の話してればいいし、それだけで楽しいけど、セクマイって自分で選び取ったものじゃなくて生得的なものだから生まれ持っての業の話みたいになって面白くない。あと、ぼくは妬み嫉み見下し見下されで生きてるので、トランスジェンダーで集まったら見下されてる感じがして怖くてその場に居られない。ジェンクリ(性同一性障害を扱ってるメンタルクリニック)も怖い。何回行っても視線が怖い。

 あと、トランスジェンダーって終わりがあるじゃないですか。自分の安住の位置を見つけ、そこに行き、他者からもそう思われていたらそれでゴールなんですよね。移行するという言葉自体そういう意味で、移行し続けるって言葉ないじゃないですか。終わりなき旅みたいな。トランス界隈って、閉鎖病棟みたく終わった人から抜けていって、残った人間は終わらない人々で、そこに居ても何を獲得できるでもなく、手本もないしただただ居残りが続くんですよね。そうなるとどうせいなくなる人と話しても仕方ないしって思ってやめてしまう。それにセクマイと仲良くしても話すことないんですよ。セクシュアリティのところが同じでもそれ以外で繋がってないから、話すこと決まってて、そこをなぞって終わりになってしまう。例えば音楽好きで繋がったら無限に話はできるけど、セクマイってそんなに現実が変わったりしないから、昔話して終わりになってしまう。ぼくのコミュニケーション能力がないからかもしれませんがね。だからセクマイ界隈って火を見つけては燃やし叩いて話してるんじゃないですかね。ずっとどっか喧嘩してない? それしか見るものない江戸時代かよってなってしまう。楽しくなりたい。以上。