保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

 金がないから文章を書く。食うだけの金はあるけど、食う以外の金はない。満足するわけがない。毎朝毎晩、今日はどこへ行こうかって考える方が精神衛生上いいのはわかっているが、ここ最近は毎回今日は樹海に行けるかなどと考えている。最寄駅から樹海の最寄駅、河口湖までは2000円しない。毎回毎回確認している。しかし、片道切符のつもりなのに帰る金がないなと思って諦める自分のヘタレさが悲しくなってやめる。

 貧乏は死ぬ場所すら選べない。死んで行く場所も地獄の一択。善行を積むのはいつも金持ちだ。人の命が金で救える世の中だから、人の命で稼いだ金で、免罪符が買われるのがオチだ。

 死にたい死にたい言いながら、結局は心配されたい。死ぬか生きるか、簡単にその二元論に逃げ込むのはプライドのせいだ。単純に乞食をしたい。自傷をする乞食の話を聞いたことがある。髪の毛に火をつけて、金を貰う。たぶん、ぼくもそういう種類の人間だ。助けてくれ、金をくれ、なんて言えないから、死にたいとか、そういう言葉に変換する。売っても二束三文にもならないプライドは、捨てたいのに捨てられない。人間の愛情やなんかなんて本当に信用できない。言葉だけでは(自分の色眼鏡通せば)嘘だらけだから。せめて、金や物品が欲しい。なんでもいいよ。自分の体が金になるなら、金にしたいが、勃起すらしない男性器と、傷だらけの首や腕。オタクみたいなくせに何も知らない頭。自分のことにかける金すらないから、金にならない体をぶら下げて、誰か声をかけてくれと今日も幽霊のように歩く。しかし、幽霊を目視できる人間がいないのと同じようにぼくは何事もなく一時間二時間歩き続け、すっかりかじかんだ手や痛くなった顎関節を家に持ち帰る。ケトルの水で暖を取り、また、誰からも眺められることのない窓を眺め、サルトルの「地獄とは他者のことである」という言葉を思い出しては、ぼくは地獄にすら存在出来ていないと思う。出口なしという作品では、地獄をホテルの一室で他者の目から逃れられない状態として描かれていたが、それはまるで精神病院閉鎖病棟だな。ぼくのような生粋の寂しがりやは地獄にしか生きることができないのかもしれない。と、精神病院が懐かしく思えてしまう有様。もう縁を切った友達が「お前は、さみしいからと言って何回も精神病院に出入りするようになるよ」と言ったのを思い出す。その言葉の通りになりそうという予感が、呪いのようにつきまとう。まるで太宰治人間失格』の竹一の言葉だ。ぼくは精神病院のような場所なら、簡単に自分が好きになれる。一番かそれに近いくらい若いから、幼い人間として扱われるし、三ヶ月やそこらなら自分を演じることが容易いからだ。ぼくは人のためなら、人の愛情のためなら苦痛が伴わない程度(ぼくにはぼくのその範囲が人より広いように思えてならない)なら、なんだってできるのに、人がいない。人の愛情がいない。ぼくを利用してくれと思う。ぼくを利用して、利用しているとさえ気づかれないようにしてくれ。頼む。ぼくには目標がない。ぼくは馬鹿だから、目の前に人参括りつけられれば走る馬だ。しかし、ぼくは駄馬だから、人参も惜しいかもしれないな。話が逸れたか。そもそも、愛情を金品などでどうのこうの考えてるやつに愛情なんか注げないわな。

 

 毎日、薄ぼんやりと死のう死のうと思いながら生きている。多くの人々が何も考えずに息をして生きているらしい。でも、ぼくも死ぬことには多少意識的であっても、生きることには無意識だ。死にたい朝目覚ましかけて、明日まで生きている。これはTheピーズの「生きのばし」の歌詞である。生きのばし、ぼくは本当に生きのばしている。生を謳歌しようなどというものでもない。欲しいものは諦めてる持ってるものにも飽きてきた。これはくるりの「GUILTY」の歌詞だ。ああ、こんなことを書きたいんじゃないのにな。最後の言葉が簡単に世に出る時代だ。だから、なんかマシなことを書こうと思うと引用ばかりをしてしまう。何一つ新しいことはない。根本的な新しさはなく大胆なバリエーションにすぎない。TOKYO no.1 SOUL SET「JIVE MY REVOLVER」またまた引用。この調子でぼくはメンヘラ神みたいに引用の最後の言葉を書き連ねるのか。何か新しいことが欲しい。ぼく固有の、ぼくだけのもの。