保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

鈍い反射

http://freak-tanatra.hateblo.jp/entry/2018/02/01/001747

http://freak-tanatra.hateblo.jp/entry/2018/02/09/195321

の記事の続きです。

 

 「服を脱げ」と言われておどけたけれど、誰も笑わなかった。胸を隠して笑いかけた。誰もその意味を理解しなくて、声に出して「恥ずかしいんですけど」と言うと、医者たちはようやく粗雑なベッドの上に布切れの病衣を置いて、部屋の外に出た。部屋の正方形の覗き窓から医者、ナースが覗いていたが、もう指摘する気はなく促されるまま服を脱いで、着て、ベッドに寝た。

 朝になると、記憶が朦朧としていて少しパニックになった。「すいません」一回叫び、二回叫ぶと部屋備え付けのスピーカーから、「どうかしましたか」と聞こえる。

「いや、なんですか、これ」

 ナースがやって来て、事情を説明される。そうですか。言い終わるが早いか、ナースはすぐに帰ってしまう。ドアが閉まる。こちら側にドアノブはない。部屋を見渡す。二畳半から三畳くらいだろうか。それに水の溜まらない、蓋のない洋式トイレ。時間もない。

「すいません」

 なんでしょう。何時ですか。そちらに時計ありませんか。ありません。そうですか、では持ってきますね。

 壁の中をくりぬいたところに安物の時計が置かれる。強化ガラスが壁に埋め込められていて、こちらからはさわることができない。バナナをうまく取れるかを実験されている類人猿みたいだなと思った。

 何しろ、こちらには物がないから時計でも眺めることしかすることができない。時計の前に座って時計を見ていると朝食が来た。喉を切っているぼくへの配慮か、すべてが老人用の粥か粥状のおかずで、とてもじゃないが食べれたものではない。朝食が去り、薬を飲むと。医者たちの回診が来る。壁に埋め込まれた時計を見ていると、医者が「ベッドに座ってください」と言う、ベッドに座って回診を受ける。医者が去る、ナースが来る。検温とガーゼの交換。昼食、薬。夕食、薬、薬、就寝。書いてしまえば数文字で終わるが、一日は決まって二十四時間だ。長い間を一人で過ごすことになる。スマホはない、本もない、音もない。見れるのは部屋の中、ドアの覗き窓、鍵のない窓。窓には鍵がないけれど、これは締められないのを意味するのではなく、開けられないことを意味する。

 初日、二日目は何てことはなかったけれど、飲みすぎた薬が切れてくるとただただ何もないという現実が襲いかかってくる。人と会うのは多く見積もったって一日に十分だ。それ以外は何も考えることがない。反省をするための多くの時間なのだろうか。去勢のためかもしれない。裁きだろうがなんだろうが、何か悪いことをしたのだろうか。神ならともかく、ただの人間に、「あなたが望んだ入院なのだから」と、それで済む論理でここまでいたぶられるのか。死んでしまえることは自由だと思う。でも、それを口にすればこの部屋から出るまでが延びるから言えない。ナースだって仕事だから、喋りかけたってそっけない。そんな暮らしの中で、ぼくが一番楽しみにしていたのは、首と手のガーゼ交換だった。

 寝転がって目を閉じて、首を差し出す。いつでも殺せる小動物の気持ちになって、首に意識を集中させる。首元に消毒液を含んだ脱脂綿がぽんぽんと当てられる。アルコールのせいか、ひやりとする。ガーゼを当てられる。ナースの片手が首元を優しく絞めるようにガーゼを押さえながら、もう片手がテープをとる。テープを張り付けるときに少しだけ首元を押される。全く苦しくないけれども、ぼくはこのまま死んでしまえたらと思う。日課だ。もうその頃には、ここは生かす場所ではなく、殺さぬ場所だということも理解し始めた。

 何日か経って、男性ナースに「こんなとこ居てもなんにもならん。ここにいたら逆に気が狂うわ」と怒ると、男性ナースは「そういうことを言っているうちはここから出せません」と言った。呆気に取られていると男性ナースは部屋から出ていった。部屋側のドアノブが取られた工事跡に、ぼんやりと自分の顔が反射していた。鏡はなかった。銀色の鈍い光でどうとでもとれる自分を眺めていた。

 そういえば、手のガーゼを交換してもらっているときに、こんな話をした。「赤瀬川源平って知ってる? 芸術家なんだけどね、その作品に『宇宙の缶詰』っていうのがあって、缶詰に張ってあるラベルを缶詰を開けて、内側に張り直した作品なんだ。この作品はね、もしこの缶詰を閉じたら、缶詰の外側がラベルの中になって、つまりは宇宙すべてが缶詰の中に入っていることになるっていう作品なんだ。ぼくも、そういう感じで空想するんだよ。もし、この部屋の内側に「隔離室」って書くでしょう。そうすると世界すべてが精神病院閉鎖病棟隔離室の中になるのかなあって」ナースは曖昧に笑うと「不思議な方ですね」とだけ言った。ドアの鈍い輝きは、いずれにしてもぼくは缶詰によって断絶されていることを示していた。どちらかが隔離室だろうと、「ぼく」と「ぼく以外」には変わりなかった。