保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

体育館裏の思い出

 amazonをうろうろしていたら、場面設定類語辞典というものがあって、もう説明しにくいのでページを見てもらうしかないのだが、試し読みをしていると懐かしいことを思い出した。

 

場面設定類語辞典

場面設定類語辞典

  • 作者: アンジェラ・アッカーマン,ベッカ・パグリッシ,小山健,滝本杏奈
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2017/04/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 私の小学校では、校長が話をする体育館の壇の下、土台部分の奥まったところがトンネルのように空いていた。おそらく壇上に上がらずとも右から左、左から右にと移動できるようだろう。まあ、使い道は小学生の行事ではないし、そんなことをせずとも壇上の奥に布がかかっていたので、布の奥で移動すればよく、使い道はなかった。体育館掃除の担当になっても使い道がないので掃除しなくても良いと言われていた。小学生が腰をかがめて通れるくらいの狭いトンネルはいつ使ったのかもわからない物が放置され埃が積もり、蜘蛛の巣が張っていた。

 私は小学校四年からよせばいいのにバスケ部に入り、自分が運動ができないということを知った。それから三年間は自分が運動ができないということを確認するために部活に行き、自分は人より劣っているということに気付きながらボールを投げ、今日も劣っていたなと思いながら帰っていた。四五年生のころは雨の日が嫌で嫌で仕方がなかった。六年生は毎日体育館で練習していて、下級生は外で練習だったのだが、雨ともなると全員が一緒くたになって体育館で練習することになる。六年生は飛びぬけて下手な私を笑えばいいほうで、笑いがなくなってくるとただただ愚鈍な人が邪魔をしている、と敵意を持って認識される。それでも耐え抜き(退部は一人もいなかった。退部というシステムがなかったからだ)、六年生になっても何も変わらなかった。うまい五年生が飛び級で練習に参加しているのを、愚鈍グループ(流石にそうは言われていなかったが、実質は名前がなかった。「レギュラーはパス回しの練習、二軍はシュートの練習、あとは隅で個人練習」と、名前がなかった)はぼんやりとまともにバウンドもしないボールを触っているふりをしていた。

 私はたまに涙が出てきそうになった。自己嫌悪なのか、情けなさなのか、子供の心情はわからないが、泣くという行動によってあらわされる一種のストレスであり、言葉にできない不快だろう。体育館の倉庫に行ったり、トイレに行ったりして短期間泣いていたが、どちらも練習場所を横切らなければならなかったので目立つし長居はできなかった。そこで編み出したのが先述のトンネルであった。そこなら隅から裏に移動するだけで自然だしばれない。暗がりで埃に咳き込みながら、ぼんやりとした。それからは毎日トンネルに通っていた。先生たちはだれも気付かなかった。

 惨めながらも、私は勝負をしていないということで言い訳してなんとか涙をこらえていた。みんなが知らないことをしているということだけが誇らしかった。私は今でも体育館裏にいるのではないか。勝負をせず、負け方でなんとか自分を保っているのではないか……。