保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

近況

 今を言葉で修飾してもすべてうつろいゆくんだよな。という気持ちになると、なんだかすべてを投げ出したくなります。気分とモード、気持ちが流行りのようにやってきては急かし、振り返るとかつていた場所は懐かしいくせにみすぼらしく思え、かといって今が素晴らしいと言えるかという観点には、未来からどう思えるかを考えなければならず、今を最高にするには立ち止まらなければならない。

 今のモードは? 問いかけられたわけでもなく、日記なのでと言い訳をして物事を書きます。言葉にすれば崇高か、カスみたいなものいいしか出てこない。急に糸が切れたかのように人との接し方がわからない。または、わからないふりをして気を引いているのかもしれない。現在が未来に笑われないようにおどおどと物を書いておりますけれども、恐らく戻ることを考えると、何か変わろうとすることが恐ろしく面倒に思える。人が何をもたらし、私は何をもたらしたいのか。何を得たいのか。全くわからない。会話ができません。

 実存主義かわからないけれど、人に存在を知覚されることが苦手というか、それによって自分が存在しているということを自分が認識してしまうのが嫌。で、自分が物を考えれば、(これは実存主義ではないですけれど)、我思うゆえに我あり式に自分が存在しているし。酷いときは横たわって冷蔵庫の音、エアコンの音を聞き、目を閉じ、なるべくふわりとすることにしてます。なにも考えていないのか、はたまた寝ているのかわかりませんが、起き、そこから改善でもなく、暇によって動かなければならないと思い、動き、定位置に戻り。時たま、やる気を出すでもなく存在すること、他者に見られることを許せるようになるとこうして文字を書いています。山月記みたい。

 いづれ戻るのだろうか。戻りたくもない。ようやく諦めがついたのに、また他者へ向かおうとする動きのムードになれば諦めを忘れ、諦め始めの馴染みのなさの感覚が身を浸す。

 思うのは、自殺というのは、(私にとって)他者への働きかけであり、私の行動で感情を揺さぶりたいというわがままの発露なんです。だから、こうしてひとりぼっちだと死ぬ気でもないし、自分の死を自分として死ぬことが難しいです。私にとっては。もし、自分本意に死ぬことができるなら、私はきっと気分転換か、考えが未来の自分によって笑われないよう、考えのピリオドとして死ぬだろうなと言うことです。死ぬというアクションで、一瞬でも私が存在していたという知覚を人に与えたくないのです。なので死ねません。人は消えれない。立つ鳥跡を濁す。生きるためにうんこしてきます。