保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

1000年後の日記

 人間は人間自身の認識において、これから特に本質を変化させることがないだろうなという希望的とも悲観的とも言える推測をぼくは持っていて、これを希望的と捉えるならヒューマニズムかと思う。自我の範囲は科学がどうこういう問題ではなく、やはり人間が信じたい範囲に収束するし、台頭してくる宗教のトップは往々にしてそれをわかっている。

 人間が信じたいところによる自我は、科学に裏切られ続け、もうほとんど信仰に近く、アホのヒューマニズムや道徳主義という宗教は未だに人間と猿は別物で、脳や魂を結びつけ、ソクラテスを肥らせることは難しいと言い続ける。

 ほとんどの国の信仰のご多分に漏れず、我が国も人に自我と許す限りの自由を与える。火星では電気と化学物質で操られた人間が幸せそうにしているというのに。

 

 この自我と道徳の戦いをぼくは六百年かそこら続けている。ある種の自由である自殺(これも火星では電気と化学物質で制御出来ている!)はこの国ではもちろん許されていない。一部分では許され、核の部分では禁じられている、と言った方が正しいかもしれない。これから本当に自分が生きたいと思えるのかと思う。そもそも、もう終わりかけで残った部分のほとんどが信仰の一部である心理学精神医学をぼくは信仰できない。

 新しい道徳は思いやりを半ば凶器に変えて、科学の運用を始めた。死者を生き返らせ始め、また自我と道徳の許す範囲で放し飼いをした。つまり、ぼくのような極めて悲観的な人間は、代わり映えのない世界を悲観的に生き続けなければならなくなった。もちろん楽観的な人間はずっと楽しく生きる。もちろんそんな人間がいたらの話だが。世界をどう見るかは自我の問題とされているから、ぼくは楽観的になるべく努力をするべきなんだと思う。

 自殺志願者は短いリードに繋がれた犬みたいなもので、本当に人生を謳歌、賛美できるまでをこの閉鎖病棟で暮らす。私の十四代前の記憶と比べれば、以前のような厳しい規則はなくなったようだ。それは命に価値がなくなったことを意味している。六百年前はカーテンすらもなかったこの部屋だが、今ではカミソリすらある。つまりは死ぬことは自由だが、生きることは強制なのだ。命という形式よりも、命の捉え方で上の人間に忠誠を見せびらかさなければならない。

 昔の人間から見たら、ユートピアは火星と地球どちらで、ディストピアはどちらなのだろうか? はたまた、どちらも・・・・・・。ぼくたちは物が見えるようになるたびに、より貧困さを増していく。水を探せば探すほど辺り一面が砂場だとわかる場所で遭難を続けている。