保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

出荷できない語り口調で

 友達と飲みに行って、調子良く不幸を笑うことができた。不当ではない不幸は恥だ。だから笑い話にできる。

 毎日が多少の差こそあれ、ほとんど同じ毎日が続いている。毎日が変わらないことは不幸なのでしょうか。二十二歳にとっては、これから先の一ヶ月は永遠で、半年も永遠で、数十年も永遠だ。このまま、何も変わらなかったらと思うと恐ろしく思える。キース・リチャーズは「世界最高のロックバンドなんてごめんだ。ずっと一位なら、心電図にすると死んでるのと同じだから(うろおぼえ)」と言ったという、ぼくもややわかる。とてもずっと一位なんてものじゃないけれど、ずっと中の下以下で、見えないところにいるなら幽霊と何ら変わらないんじゃないか、と思う。一位を取れないなら、すぐに「1抜けた」と言うほうがマシじゃないかとも思う。1抜けたことを誇らしげにスローライフだとか悟りだとか言って、勝負していないことで人に勝った気持ちになる方が楽なんじゃないか。躁鬱だから停止していることか珍しく、慣れない場所でこのままでいくことの怖さがある。ロックンロールになぞらえて、転がる岩には苔がつかない。何もないところに停止したら、転がってもないのに苔がつかないのではないか? そう思うと、生き死にを叫んでいた一年前が羨ましく思える。

 この一年で学んだことは、人には自殺する才能があったりなかったりするということだ。自販機のジュース買うのを悩んで同時押しする時、無意識下にどちらのジュースかをコンマ数秒早く押すらしい。それと同じように、無意識下に自分を死ぬ場所に置けるひとがいる。それとは反対に自分を死ぬ場所に置けない人がいる。それは恐らく、ほとんど才能で決まっていて、死ねない人は「どうにかなる」世の中を、「どうにか」でだけ生きていくしかない。カート・コバーンイアン・カーティスにはなれない。死ねないとわかった時から人生は余生になる。悟るということは素晴らしいとは限らない。どうしようもないということがわかり、どうしようもないことに対して、様々な気持ちを持っていくしかないということも悟りだ。

 

 バーで不幸を笑っていると、自分が奇異らしいということが反応でわかる瞬間がある。自分が平凡ではないと思うことは恥ずかしいとされてるし、それに不幸にも慣れがあるので、身の回りの奇人は頭の中の注釈がいらないくらい「そういう人」だと諦めもついてるから、自分の境遇を忘れてしまう。飲む度に隣で飲んでいる知らない人に、死にたくなるようなことや転がるような恋愛がないことを確認すると、境遇のギャップにそれぞれ驚く。自分が特別であると思うようなことはなく、傷つくことがなかった人は出荷される野菜のように、オーバーグラウンドでは一般で、その下にはB級C級の出荷されないぼくたちがいるだけだと、ある程度諦めの思考を事実だと思っている。傷のついたB級品と手首の傷を重ねてぼくたちは軽口を叩き、笑い合っている。笑い話にすれば、不幸話はオーバーグラウンドに出荷できるものになる気がする。