保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

眇で普通への距離を測る

 なにか経験するたびにその足跡を振り返り、こうやって文章を書いている。ここ数ヶ月の日常から変わったことといえば、バーに行くことだった。バーに行き、ぼく(と友人)は今まであったことをさらうように話す。笑ってもらえると嬉しいし、楽しい。酒もおいしい。マスターや客と音楽の趣味とユーモアのセンスも合うことが多い(これは一番大切だし、この大切さがわかる人間とは仲良くできる)。ぼくと友人は時折、いかに正しさから離れたかを語る。ぼくは正しさに関しては二、三個の信念しか持ち合わせていないから、パイナップルの酢豚とチョコミントに否定的な意見を持つ人にしか正義を発揮することはない。つまり、ほとんどの場合正しさから離れようとするでもなく、正しさの範囲を理解することがなかったために正しさから遠く離れる。毎回、笑い話のついでに、他人が思う自分たちのいる位置が自分たちが思っている位置より離れていることに気づかされる。

 ぼくらは「なんとなく、クリスタル」式の注釈の多い話し方をした。さらに、ぼくらの物事に精通していない人には単語が理解されないことも多々あった。その人にとっては時計じかけのオレンジ式に、言葉の語感だけが耳元を滑るだけだ。当然の帰結として、あまりにもぼくらと離れているため全く話が通じない人もいた。

 バーが夜更けに近づくにつれ、人の数は増え、かかる音楽はFMラジオ性のあるものが多くなった。ぼくの斜め前では黒人とアジア系の外国人がギターに合わせて何やらラップもどきをしていた。何事も大いに結構以外の感想はない陽気さだ。あまのじゃくなぼくは時折、周りが高まれば高まるほど、それを水底で眺める気分になることがある。これは何事も誰が悪いというわけではない。ぼくの病気のせいだ。便秘と同じで、なるときはなるし、ならない時はならないというようなもの。ぼくはクーラーの冷風に耐えて、服を羽織り、酒を固辞して、物事の風向きが良くなるのを待っていた。今になって思えば、酒が切れかけて寒いだけなのであった。その時の憂鬱も、酒が切れて気分の下駄を脱いだだけのように思える。酔って判断力が鈍り、さらに酔うという方法を忘れていた。迂闊。

 バーから帰り、倒れ込むように11時間半眠り、夕方に起きると風呂に入った。このまま夜行性になると困るなと思いながら飯を食い、洗濯機を回すと、そのリズムを子守唄にして11時間また眠った。結局、生活リズムは戻った。自慢ではないが、ぼくはよく眠るということで女の部屋から追い出されたことがある。第二の理由は寝ている間によだれを垂らすからだった。肩を回し、鏡に向かって大あくびをすると、機嫌含め全てが元の位置に戻った。思い返せば全て楽しかった。

 

 何かを語ろうと思う。最近、ぼくと友人のつるむ範囲の人々にはこのブログを読んでくれている人が多いらしく、自分の性器の大きさがどう思われているかを考える露出狂みたいに恥ずかしいようなよくわからない気持ちになった。なるべく大きいと思われるように話をする。

 何を語ろうか悩んでいる。なにか改めて物事を書こうとしても、ぼくの中で多くの物事はぼくを不可逆性の中に落とし込む体験だから、今では当時どうとかを上手く書くことが出来ない。焼いた陶器は元には戻らない。ぼくは語ることに対して誠実すぎるのかもしれない。語りたい物事はいつもあまりに感覚的すぎる。それにぼくは物事を語るのに普通と対比させて話しているから、普通がわからない時、途方にくれる。しかし、人々の普通をわかっている人間などいるのだろうか? ものの大きさを広げた両手の幅で測るミスター・ビーン式に、それぞれの人の普通は他人の普通をブレながら測っているだけではないだろうか。

 友人について語りたい。最近とみに友人とぼくが仲がいいと言われる。ぼくと友人はこの仲の良さを普通だと思っているが、その仲の良さは世間一般ではあまり普通ではないのかもしれない(あまりに仲がいいと褒めそやされると、これは普通ではないのでは?と疑心してしまう)。二人の暗黙の了解が多すぎて、さらにその暗黙の了解が人に理解されることが少ないので、とても説明しづらい。暗黙の了解やぼくたち自身の説明のしづらさが、よりひしとぼくたちをつなげている面もあると思う。互いに生死や調子などに関心を持たないということも暗黙の了解の一つだし、個人が何をしようが勝手だというのも暗黙の了解だ。それも何も維持に力を入れるようなものでもなく、それぞれの考えが似通っていて、そうなっているというものだ。そして、それは理解とも取れる。友人とぼくが互いに信用というか、安心していられる理由は、友部正人の「どうして旅に出なかったんだ」という歌に似ているなと思う。旅に出ている人間はまた会える気がするのに、旅に出ていない人間はもう会えない気がする。旅に出る側の人間が同じ側の人間に安心していられるというのと同じだ。考え方の相似で、また会うだろうと安心していられるという形。

 それと、ぼくたちはホモセクシャル的に思われたり、また、それを自ら演じたりもするけれど、本質はホモセクシャル的ではないと思う。なぜそう思われるかと、理由をこじつけてみると、ぼくらは正義ではないから、結果的にホモセクシャルにも見えるということだと思う。ピカレスクからビートニクを抜けて、悪党を描く小説はホモセクシャル傾向が多少の濃薄はあれど見られるから、ぼくらの語り口にもそういう色が出ているだけで、ぼくらはホモセクシャルではないと思う(ぼくらは悪党というには可愛いから、正しくない人間という意味で「悪友」というのがより正しいと思う)。より多くの正義がより多くの人々を不快にさせている間、ぼくらは仲良くやっている。それだけの話だ。

 もちろんそう思っているだけで、普通の範囲から見た自分たちの姿は普通ではないのかもしれない。しかし、眇で見た普通への距離はこの文章で表したくらい。