保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

日常と雑感

 ストップウォッチを眺めて一秒の意外な長さに驚くように、毎日思ったよりも長い。何回も実感する。思ったよりも長く、思ったよりは平凡な日常が思ったよりも過酷にやってくる。

 毎回、うまく自分が二十四時間をやりすごしているのが不思議に思う。前任の自分を引き継いだみたいに、自分初心者が自分をなぞっているのではないかと思う。ギターを弾いてもギターを弾けることの確認で、それ以外も自分が好きらしい物に溢れた部屋の中を遭難したみたいに目が滑る。これが病的なものなのか、ありふれたものなのか、自分の考え方のくせなのか全くわからない。医者は何言っても「それはね、みんなそうですよ」というから、ぼくの知らないところでみんなが精神障害者二級なんだと思う。

 どうしたらいいかもわからず、二十四時間が頭の上や布団の上を雨雲のようにのろのろと形態を変えながらうろついているので、ここ数日は本をずっと読んでいた。小学生の頃はとても本を読んでいて、中学生の頃は少しエンジンが鈍って本が積まれていったけれど、それでもまだエンジンは動き、のろのろと本を読んでいた。高校に入ると、エンジンが錆び付いたし、前述したように後任の自分へとバトンタッチしたか、他の物事にエンジンがかかってしまって、本だけが積んだまま部屋の窓を塞いでいた。中学の頃のエンジンのまま、惰性で生きているような気がする。中学の頃に好きだった楽器や本が今も部屋を散らかしている。よく本を買ったり、エフェクターを買うものの、本を読んだり、ギターを弾くことが少なくなった。自分が何に喜ぶのかがわからなくなっている。子供の頃に好きだったお菓子をずっと買ってくる祖母みたいだ。自分はもっと違うものへ変容しているのだろうか。それでも、たまに楽しく本を読めたり、ギターを弾けたりする時があって、なぞるのではない生の実感に喜んだりもする。それかうまくなぞれたときに生の実感を得るのかもしれない。おとといと昨日今日は生の実感とは言えないまでも、自分が本を読む能力があるということに喜びの発見をした。

 残りの人生を、デクレッシェンドしていく力を試しながら終えるような気持ちだ。ぼくは年寄りじみたふりをする若者が嫌いなのに、年寄りじみていく。もしかしたらこれはぼくらの世代に共通する厭世観の発露なのかもしれない。

 本の話に戻す。中学の頃、背伸びをしてニーチェを読んでいた。教育実習生が「ニーチェなんか読んでたらろくな大人にならないぞ〜」と言われたので、読むのをやめたら数日後数学を教わりながら「ニーチェが言っていたのはこういうことじゃんか〜」と謎の指摘を受けた。結局、読むのをやめてもろくな大人にならなかったし、ニーチェはわけわからない。

 ぼくはなんだか、背が伸びなくてつま先立ちもやめたような感じだ。子供の頃は大人ぶっていてとても賢い子みたいな雰囲気だけをまとっていたけれど、疲れてつま先立ちをやめたら等身大で育ってない自分しか残らなかった。今はニーチェも読んでない。というか躁鬱がひどかったときに一回本も楽器もCDもあらかた売った。九割売って、一割を大事にしたあと売った。実家には家具とカーテンしかないし、この前帰ったら家具も減っていた。今となってはなぞれない大きさの過去の自分。成長してないのなら延々と初期衝動でも謳っていようかと思った。

 

 

 全然関係ない話をする。このブログが現実の知人に読まれることがあり、あまりそういうことがないので恥ずかしい。ぼくは元カノを悪し様に書きすぎて怒られた後破局しているので、知らないうちに周りを傷つけているのではないかと思う。ぼくの周りには類は友を呼ぶというのか、スタンスとしての冷笑のために人を遠ざけてしまう人が少なからずいる。もちろんそのスタンスに遠ざかってしまう人もいて、ぼくはそういうことがあるたびに、虚を突かれるような、狐に化かされたような、そんな思いがする。当たり前のことを忘れているだけなのだが、当たり前のことは当たり前だから忘れやすい。なるべく、染み付いた悲観から足を洗って漂白したい。冷笑は人を遠ざけてしまうからちゃんとしたい。つまりは人を遠ざけたくない。これは数行だけしか読んでないニーチェの数行分の呪いかもしれない。ニーチェがなんて言ったかも知らんけど