保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

非道徳的なスローガン

 街を歩いているとペンキの匂いがした。顔を顰め、睨むように工事のシートを眺めると、半年ほど前に閉まった店が服装を変え、名前を変え、中身を変え、そろそろ生まれ変わろうとする最中であった。しかし簡単に人間は死なず、ほぼ道徳的なスローガンにおいても人は生まれ変わらない。

 


 ぼくの周りには死のうとする人が多い。その度にぼくはぼんやりその人の思い出を精算して、その時に備える。幸い、ぼくはまだ知り合いが死んだというような事態には遭遇しておらず、そして幸いかどうか、今のところ自分が死んだ訳でもない。死にたい人は死ねることが幸いで、その周囲はその人が死なないことが幸い。なんだか、落語の死神みたいだと思う。死神を追い払う術を知った主人公が、その術を利用していくのだが、最終的に金に目が暗み、人の死神を追い払うために(不本意ながら)自分の寿命を渡してしまう。そんな、死ぬ人と死なない人を交換するように、死にたい時を人と交換しているような、幸い死なないと不幸にも死ねないを交換しているような……。

 


 人が死にたい時、自分は何をしたらいいのだろうか。そんなことはもう随分前に考えるのをやめた。結局、死にたい人は死にたいから死ぬのだし、どこかの国には命を助けた人にはその人生の責任があるという諺があるらしい。なんかの映画で言っていた。死にたくて死んだ人を死にたいような現世にとどめておくことは出来ない。

 それに、死ぬ死なないにおいてだけではなく、生きる生きないにおいても自殺というのが有効である、ということをぼくら(自殺未遂の人々)は知っている。生の岸を見るには、思い切って死の岸へと幅跳びして、生を客観視することがある。そして、過ぎてしまったことに対する後悔の冷静な念で、幅跳びした分を戻るのだ。

 


 しかし、こうも人が死にたがると、自分が足元に立つ死神(追い払える死神)で、人を追いやっては追い払われているのではないか。自分が消えれば……と思ったり、自分の寿命をその人に渡すことが出来たなら……と思ったりもする。しかし、そんな自爆テロ的善行はもう時代遅れで、時代がそんなことを認めないのだ。神風の時代ならともかく、今は2018年だ。命を燃やしてビルに突っ込む物語性では、日常に立ち向かえない。何をするべきなのか。何をするべきでもない時代なのだろう。死んだり生きたりを繰り返して、日常の物語性の中に行ったり来たりする。そういう物語性しか今は残ってないのかもしれない。自死と回復の日常、それこそが二十一世紀的人生なのだろうか。