反日常系

日常派

小説

 思いつきで小説を書きました。よくある掃き溜めだけを見て、大人になったつもりの奴の書く小説みたいだとは思うんですけど、吐き出しておかないと立てる腹も下しそうなので吐き出しておきます。

 

 

 

 よくもまあ、こんなに多くの売女がいるもんだ。インターネットの波を溺れるように見渡せば、サメより多く、サンマより少ないくらいの量で風俗嬢がいる。口を大きく開けて呼吸のようにコミュニケーションという餌を待ってる。
 僕の身の回りにも売女がいる。僕には周りが売女になっていく呪いがかかっているのかとさえ思えるが、自分が過ごしている現在地が掃き溜めだから売女がいると思った方が近いだろう。

 街を歩けば雪が降ってる。僕の地元は千葉だけれど、千葉の港と東京じゃ大違いだ。海水温度は気温の二、三ヶ月後ろを着いてくるので、東京では雪の降る十二月に、海水が気温を温めて漁港に雪は降らない。
 田舎から東京(本当のことを言えば、住んでるのは東京から数駅出た埼玉だが、そのくらいの誤差は田舎人には東京の範囲内だ)に出てきて、季節というものを知った。田舎には季節がない、と言いたいわけではないけれど、田舎には季節を楽しむような生活はない。車に乗り込む数分しか季節がなく、車窓に映る何もない町には自然も銭湯の富士山と同じ色彩で古ぼける。

 あの娘に呼ばれた。いつものようにラインを適当に返すと、当て所ない散歩の足を急転換して、最寄駅に向かう。最寄り駅までの数分、マフラーに顔を埋める。癇癪持ちのジジイのように体を丸めると、なるべく転ばないよう地面に垂直に足を下ろし歩く。雪を割く、スナック菓子を食べてるみたいな音をリズムよく鳴らす。最寄り駅はいつもより閑散としていた。電光掲示板には「大雪のために運休。復旧の見通しは立っていない」との意。まあ、いいか。何するでもない。携帯は見たくなかった。とりあえず改札の中に入り、ホームにある喫茶店に入る。
 金を払い、コーヒーとホットドッグを持って店内を見渡してから、人が多くて座れないことに気づいた。相席をお願いするしかない。一番まともそうな老婆に話しかける。
「すいません。ここ座っていいですか?」
「あー、いいですよ。今荷物どかすからね」
 老婆は椅子に立てかけていたバッグを自分の膝の上に置き、テーブルの上に散乱していた物を肘より先で自分の方に引き寄せた。
「どこかへ、お出かけですか?」
「そうですね……友達の家に行きます」
「わざわざこんな日にねぇ……」
「こんな雪が積もるとは思いませんでしたよ」
 老婆は目を開いた後に、細く弓状にして笑った。その老婆の癖なのだろうか。けれど、懐かしい感じがした。
 老婆は僕がホットドッグを食べるのを見ていた。食べ終わると、
「老眼鏡を忘れちゃって……新聞を買ったまではいいんだけどねえ。新聞、なんか面白いのがあるか教えてくれない?」
 と言って僕に新聞を押し付けた。久しぶりに新聞を読む。新聞のインクが暖房の暖かい匂いと混ざって気持ちが悪い。僕は新聞を小さく開くと、なるべく話の種になりそうなくだらない三面記事を探した。
「北京の動物園でホッキョクグマが逃げちゃったらしいですよ。閉園後に、鍵を壊して逃げて、翌日の朝、猿の檻の前で捕まったらしいです」
「あっははははは。なんだか絵本の中の世界みたい」
「いやあ、猿も怖かったんじゃないですかね。ははは。夜寝てたらすぐ側にホッキョクグマが居て」
「違うと思うわ。きっと、ホッキョクグマと猿は夜中に鳴き声で会話してたの。それで顔はわからないけれど、惹かれあって、ついに脱走して一目会いに行ったんだわ」
「なるほど……そう考えるとロマンチックですね」
「きっとそうよ。思ってるよりも劇的だと思うことで、世界は劇的に変わるのよ」
「あと、なにか面白そうなニュースはあるかな……」
 僕の目が新聞を滑り、手がペラペラと新聞をまくる。そうしていると、ホームに駅員の放送が流れる。
「運行再開の目処が立ちました。十三時、十三時ちょうどにこの駅の二番線に電車が来ます」
 時計を見ると十二時四十七分。ここは四番線ホーム。
「電車来るみたいですね。出ます?」
「いえいえ、あたしはそんなに急いでないから。きっと、すぐだと人が多いでしょう。電車の中。もう少しゆっくりしてから行きますよ」
「そうですか、じゃあ僕は二番線に行きますね。それじゃあ」
 老婆に新聞を渡す。折りたたんだ新聞の一面に、「過激派集団がテロ予告。不要不急の外出は控えて」と書いてあったのが目についた。ホームからホームへと階段を上り下りしている時に、その文字が本当だったのか、なにかの空目じゃないのか、そもそもその新聞の記事を見たという記憶は正しいのかと考えていた。そんなことが自分の国で起こると思えず、そんなことに自分が巻き込まれるとも思えなかった。あまり考えないことにした。寒くて自販機でホットコーヒーを買う。コートのポケットにコーヒーを突っ込んでカイロ代わりにする。電車が来た。乗り込む。電車の中は空いていて、この混雑具合なら構わないだろうとコーヒーを開けて飲んだ。
 電車の中ではなぜか新聞を読んでいる人が多かった。窓から外を見ようとしたけれど、窓は結露で曇っていた。子供が窓に指で描いたであろう星マークがまた新たな結露で消えかかっている。随分と時間がかかったけれど、あの娘からのメッセージはない。バイブレーションがポケットを揺らしている感覚がなかった。そして、画面を開いてわざわざ確かめたくもなかった。なんだかすべてが僕への暗示みたいに思えて頭から血が引く。乗ってきた老人が缶の焼き鳥を開けた。爪楊枝でほじくるように食べている。メロンソーダを飲んでいる。僕の目がカメラになって、ズームで口元を写してるみたいだ。目を閉じても音が聞こえる。だめだ。iPodを取り出して、大きいヘッドホンをかけて、ビル・エヴァンスを聴く。

 なるべくすべてに干渉されないように改札を出る体を丸めて足早に歩く。あの娘のマンションの方へ向かおう。そう思っていたのに、長身の黒人が僕の肩を叩いた。ヘッドホンを取る。
「なんですか?」
「お祈りさせてください」
「いらないです」
「少しで済みますので」
 すの発音が日本人とは少し違うなと思う。しかし、そんな些細なことも頭に入れたくなくて、全速力で走る。走れば着いてこないことも、もう着いてきてないこともわかっているのになんだか怖くなって結局マンションまで走って着いてしまった。電子キーのナンバーを押す。走った後だから、心臓がばくばくして、エレベーターの中で息を整えた。心臓がうるさくなくなってから、iPodが違うアルバムを流していることに気づいた。これは……キャロルキングか。ヘッドホンを外し、ドアを開ける。
「おい、入るぞ」
 返事はない。カーテンが締まっていて、部屋全体が暗い。浴室だけ灯りがついていて、そこから光が漏れている。
 浴室に入る。あの娘が死んでいた。浴槽は血が水で薄まったのか、水が血で薄まったのかという感じで、安物の赤ワインみたいな嘘っぽい赤色に塗れていた。僕は浴槽に腰かけるとなんとなく、表情や肌艶から眠っているのではないことを悟った。おそらく――というより十中八九――一命を取りとめるのを狙って失敗したのだろう。自殺未遂の失敗、自殺の成功……。
 世界からの暗喩は僕のことではなかった。事象を告げているだけだった。ほっとしたような、混乱したような気分で身を固く硬直させる。これから、悲しみがくる。そうでなくとも更なる混乱がくる。おそらく、どちらもやってくる。どうしようもない。身を固めて過ぎ去るのを待つことしかできない。しばし目をぎゅっと閉じていると、浴室の換気扇が一定の音をずっと維持しているのが気になった。一旦固まるのをやめて換気扇を止めよう。目を開けると散乱した浴室が再び現れる。封の開いた煙草、からっぽの酒瓶、薬のゴミ、血に塗れた彫刻刀。そして動かずにそのままの死骸。ふーーっと息を吐く。吐ききって、吸ってを繰り返す。なんとなく、煙草を吸い始めようかと思った。やり過ごすには物事を機敏やきっかけと思い込むことが必要な場合がある。転がっている煙草を口にくわえる。ライターは? 見当たらなく、リビングへと向かう。机の上のライターを見つけ、煙草に火をつける。恐る恐る息を吸い込むと、思いっきりむせた。背を丸くして、息を吐瀉物のように吐き出す。そして、もう一度もう二度、と吸っていくうちに煙草の匂いがいつもの匂いではないことに気づいた。不意にやってきた暗喩や兆候が僕を脅かした。しゃがんで身を急いで固めると、切り忘れた換気扇がうるさく響いている。