保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

捧ぐように笑う(迷信の話)

 僕は時おり変な思考がこびりつくことがある。それを払うのに必死になることも、こびりついた思考が自分のふるまいの表面を覆うのをただ見ていることもある。小学生の頃には、人と同じ言葉を同時に喋ると魂が持っていかれると思っていた。そのために人が喋らない間で、人が喋らない言葉を選びとってコミュニケートしていた。まるで地雷源を恐る恐る歩くかのように。

 高校生の頃には、自分が思っていることは過去の自分が想定していた範囲で、自分が未来どう思っているかは今の自分が想定できると思っていた。そのせいで僕は、過去の自分が考えていた現在で、現在の自分が過去の自分が現在を思っていることを思っているということを過去の自分が思っている、というようなめくるめく入れ子構造の無限の中をさまようことがあった。そうなると僕は変なコードを挿入された機械みたいに、無駄に稼働させられた頭がそれ以外の行動を拒否してしまう。

 今も、そしてこれからもこびりついた思考に左右されていくだろう。癖のついた車を運転するみたいに、まっすぐを走るためにハンドルをほんの少し右へ曲げなければならない。結果から逆算してどのように動いていくか。

 

 僕が信仰するのは僕だけだというと格好つけるにもほどがあるけど、僕は僕を信仰するのをやめることができない。脅迫観念的な迷信が唯一の神かもしれない。関係ない話を一時的にする。狂人かそうでないかは、まともの物差しが普通と違うかより、まともの物差しを自分か他人どちらかが持っているかではないかと思う。どっちが狂人かはまだわからないけれど、おそらく、まともを測ってもらうのとまともを測るのでは根本的に違うのだ。人に測ってもらったまともを着るのと、人を見て測ったまともを着るのとでは。関係ない話終わり。

 今こびりついた思考は、行動する度にパラレルワールドが一つ一つ作られているのではないかということだ。何かを選ぶ度に違うものを選んだ世界線の自分がいる。チョコレートを選ぶかポテトチップスを選ぶか。バタフライエフェクトみたいに、チョコレートを選ぶことで人が幸せになっている。ポテトチップスを選ぶことで路地裏で人が撃たれて死んでいる。そんなふうに、選ぶすべてが銃口で、なるべく銃口が人を向かないで済むように祈りながらチョコレートを食べる。我ながら馬鹿らしい。

 脅かす迷信の神よりは、げんかつぎの迷信の神を信仰したい。例えば、笑う度に人が幸せになっているだとか、コーヒーを飲む度に人が助かるだとか。思えばそれは善行なのだろう。ボランティアをすれば誰かの幸せに結び付いている。募金をすれば人が助かるというような。健康に気を使うことだって迷信への信仰かもしれない。野菜を食べれば長生きができるという医学に基づいた迷信。迷信を信仰して、自分の祈りが人を助けると思い込むように生きていきたい。僕が幸せに生きれば人も幸せになるというような、身勝手な迷信を信じたい。例えば僕が面白くて噴き出してしまう時、それは愛すべき人たちに捧ぐように笑っているというような。