保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院一日目

 今入院初日を振り返るにあたって、夕方というかなり早い段階で草稿を書き始め、そのままいけば書き上げてしまおうという考えはいささか軽率に過ぎないかという憂いがいささかあるものの……?

 修飾や長い名詞が一文を長々と断定と句点を避けるかのように蛇行していく。入院初日はこの文章のようだ。すべてを薄めるかのよう。

 前日の台風と翌日の台風一過の気象の乱高下故か自律神経を崩した。ゲロを吐きそうになりながら、前かがみに電車を降り、ホームで深呼吸をして水を飲み、また電車に乗る。休み休み病院に辿り着く。単純な体調不良を神経衰弱に見られながら、受付、診察、入院の案内、薬剤師の診察……を終える。つぎつぎと新しいドアを開きながら、閉まったドアに振り返る。覚悟を決めて歩く。それにしては拍子抜けだった。ドアに鍵がついていないことやナースステーションが強固な壁に囲まれてないことに驚き、その度に昔を懐かしみ、昔からずれた現在位置を確認する。今回は鍵がかかる浴室がある。手荷物の検査はない。剃刀だって持てる……。ぼくは前回の入院の時、サルトルの『出口なし』という戯曲を思い出していた。『出口なし』は人の死後を描いた戯曲で、死後、ホテルの一室に集められた数人が結局、逃れることの出来ない他者の視線こそが地獄なのだ、と悟る、という筋だ(った気がする)。閉鎖病棟が『出口なし』の地獄なら、ここは「出口あり」の現世だ。手すりを擦って歩く、自殺未遂の人間たちもいない。見た感じの病人もいない。ここはどこへでも行けて、まだ死んでいない人々が集まる場所なんだ。そう思うと同時に、自分が埋葬され忘れた死体のように不似合いに思えた。どこへも行ける人々がエレベーターに乗っていくのを見ながら、ぼくはため息をつく。どこからか聞こえる病人特有の不自然に軽く高い声が影みたいにぼくを脅かしてしまう。自分の声色が変ではないかを確認する。

 

 ぼくは早めに風呂に入ったり、ぼうっとしたり、老人ホームのような一日を過ごした。句点を打って文章を終わらせる勇気がない人間が、だらだらと文章を書いて意味を遠ざけて薄めてしまうのと同じようだ。それが正しい入院というものかもしれない。薄めた日常や薄味の病院食にも飽き飽きした頃、また外に出て子供みたいにすべての物事に目を輝かすことができるのだろうか?