保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院三日目。

 夜中、病室で誰かが何かを音読していてうまく眠れない。「なんでそんなもの読んでやがる」「困るんだよなあ。なあ」隣の人が言う。対角の病人はいびきをかいてる。ぼくはもうナースに伝えようとしていたのだが、また眠ってしまった。

 朝、「カーテンを開けますね」と言われ目が覚めた。うまく起きれない。夜中あれから何回か起きて、二回目の睡眠薬をもらったのか定かではない。三回、四回と起きて、そのことを考えて、眠った。今になれば夜中は全て夢だったのかもしれない。音読も、睡眠薬も。多分そうだと思う。

 前回の入院の時は外に出る夢ばかり見ていた。家族でイオンモールに行ったり、友達と江ノ島に行ったり、夢の中にしかないブックオフに行って好きなバンドのCDを買い漁ったり(これは大学一年生の頃から定期的にみる夢である)。

 朝になっても細切れで眠っていて、ナースコールの電話が鳴った。朝食を食いたければ食堂へ来いとのこと。時間はあと十五分もない。急いで立ち上がり、髪の毛を手櫛でかきわける。食堂へついて、食べ物を取り、食べ物の匂いが吐き気を催してしまい、椅子二つの上で横になった。食堂で横になっていると、食堂のお姉さんが来て、ナースが来た。何も食えずに帰る。

「人が苦手なんだよね?」

 苦手かどうかもわからない。カルテに書かれるくらい苦手なのかな。

「わかんない……」

 急激に病人じみているのがわかる。ラウンジで朝食を食べても、食べ物は固体で、存在していて、匂いがあって……心配かけないように小さいパンと人参ジュースを平らげた。人参ジュースが人参ジュースだったかはわからない。色が人参だった。不幸を書き連ねて、同情を惹きたいわけじゃない。不幸ではあっても、不当ではない事象なのだから、同情を惹くにはしょぼすぎるだろう。

 なにもないから昔のことやありもしないことを考える。前の入院の時は人と喋る妄想、可愛がられる空想などをして、一人枕を濡らしていた。そのくらい暇だった。今もだけれど。

 描写は終わり。

 

 これからは思考。

 生と死、性と肢、精と子……なんでもいいんだが、人々が一番最初にアバンギャルドイカしてると思うものは生と死に関する物事だ。「歳をとっていくと、そんなものはなんてことはなくなるんだよ。性欲の減少もあるだろうね。でも経験した物事が多くなるってことが原因なんだと思うよ。十六でセックスをしたらその人生経験の中身はセックスばかりになってしまう。七十にもなって人生経験の二割がセックスです、なんて人はほとんどいないだろう? そういうものさ。そのうち朝食にブルーベリーを食べるかとか、そんなものがだんだんイカしてくるのさ」というのがぼくの中の年寄りじみたい二十二歳の意見だ。ぼくの中に「過度を学ぶ 1Aクラス」とも言うべきの物事が多く刻まれていて、それへの自己嫌悪かもしれないけど。
 日常はハードコアだ。日常にはモザイクがかからない。セックスもあるし、翌朝セックスをした二人が食パンにつけるバターがないことに気づくこともある。どれも無修正だ。病院にいると、修正されきった世界を生きてる気持ちになる。人は酒も飲めないし、許可なく一時間以上の外出はできない。良くも悪くも。

 日記を書いている。
 たとえば、書くのに全然値しないものがある。でもそれは書くのに値しないということはないのだと思う。話には転がる筋があり、落ちがあると思うから言葉が少なくなっていくんだ。この水とお茶しか出ないドリンクサーバーは前の病院にもあった。それだけでいい。読むのに値しないだけだ。そういうことを書いていくのはぼくから社会性が抜け落ちているのか、ぼくの生活から社会性が抜け落ちているのか。その両方か。
 ぼくはなるべく思いついたことを書くしかできない。それが今のムードで、結果、見るものを見て、それに主観であるという5なり0.8なりをかけて感傷にする。読書感想文的とも、あこぎな商売的とも言えるかもしれないけれど、書くことが周りになさすぎると言うのもあるし、頭の中が木魚みたいに空虚に響く。病人版『ユリシーズ』という感じだ。意識の流れの上に大きな浮き輪を渡してそこに乗ってる。どこ行くでもなく意識の流れを眺めてる。それしかできないな。