保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院四日目

 何にせよ有用性のあるものを書きたいけれど、ぼくはだいたい有用とは反対のところにいるので、毎日感傷や感情を書いてしまう。世の中は有用性ばかり求めるから、ぼくも求められたい。ライフハックはぼくが知りたいくらいだ。ぼくは有用でないことばかりを書くしかないようだ。金もないのにデカダンスだ。ほとんど宙吊りの生活で、吊られたぶん遠くの物事が見える。といいなあ。

 

 やはりうまくいかない。朝の検温や脈拍を測る時に、「これからは自己管理できます?」と聞かれた。やろうと思えばできる。「できます」でも、話を聞いているうちにできる気がしなくなった。機械に手を突っ込んで脈拍と血圧を測り、紙に書く。紙には前日の排泄のことも書く。食欲、残眠感、中途覚醒の有無……。もう無理だ。話を聞いているのもやだ。体が鉛のように重くなっていく。なにもできない。

 ぼくはよく地雷源を歩くように些細なことを引き受ける。些細なことすら人の怒りの尻尾に思えて、尻尾を踏まないように引き受けなければと思ってしまう。そして不幸にも今ぼくはなにもできない。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「いえいえ、全然そんなこと思わなくてもいいんですよ」

 ぼくの手は巻きついた蔦のように顔を覆って目が何も見ないで済むようにする。目を覆う任務に当たらなかった方の手は頭を抱え込む。

「消えたい……死にたいけど、死のうとすると閉鎖にぶち込まれる……。誰ともコミュニケートできない。人に迷惑をかけている。些細なことがぼくにはできない。些細なことが人に回っている。みんな忙しそうだ……話せない。こんなぼくが話すことなんてないけど」

 もっと言ったと思う。言葉の節々に合いの手みたいに適当な相槌が打たれる。死にたい。死ぬ気は無い。死ぬ才能もない。ここに居たくない。でもここ以外でなにができるというのだろうか。

 頓服をもらう。

「すみませんでした……忙しいでしょうし……」

 去る。つらい。存在が耐えられない質量を持ってる。重きにしろ軽きにしろ。

 

 午後にもう一回看護師と話した。本当に辛いし、病棟医は苦手だし、気分が下がって手首でも首でも切りかねない(それがどんなにくだらないことだと分かっていても)、ずっと落ち込んでいる。何に落ち込んでいるのかもわからない、何を話したのかも覚えてない。気分の障害だから本当にどうしようもない。気分には薬も効かないし、抗うつ薬飲んで躁転したくはないし、完全に治ればいいんだけれど、そんなことは無理だ。死にたい以上に健康になりたいけど、死ぬこと以上に難しい。ここからさっさと退院したい。退院してどうなる。いつもの生活に戻れるのか? なんだか難しく思える。死にたい。死んでしまいたい。どんな生活へも行けないという確証のない確信がある。ただの生活だって、ただの人生だって、病気がハンドルを切った方向の気分になるんだ。ぼくが全て悪い。この全てを捨てて健康になりたい。そんなものは無理だ。死んだ方がいい。そのくせ死ねない。くそだ。消して吐き出せもしない糞を反芻する人生。死にたい……(可能であるなら)。

 

 

 メンヘラは攻撃的にすぎる。自分の命を燃やしてしまう時、それは何かに引火するということをわかっていてやっている節がある。病人は消耗的だ。自分の命を湿気させて、なんにも燃えられない。メンヘラも病人も全ての物事が燃えたり燃え移ったり、燃えられないことの確認だったりする。ぼくは火から遠ざかりたい。ヘイヘイマイマイって感じのメンヘラ。対し、ぼくは燃え尽きたくもない、燃え尽きたいけど、そんな才能はない。健康的にアルコールランプみたいに長く燃えれたらいいなとは思う。でも最近は湿っぽすぎる。快活な人間へ戻りたい

 

 ぼくが耐えられないのは、この病院は被害者しかいないってことなんだ。みんながイノセントぶってる。助けてほしいよ。傷口や病気が歩いてるようなもんだ。みんながこういっては悪いけど「かわいそう」という文脈を持っている。インドに旅行して、少年こじきを見たらそういう気持ちになると思う。ぼくのいらない正義感だとかが、病人の一挙手一投足から世界の裏の顔をめくって見てしまう。そして思う。あー、ぼくの存在か?と。ぼくは鏡に映して自分がなるべく不幸を背負ってない動きをできているかを確認する。けれどもよくわからない。

 

 バーでの友人にラインして本を買っていただいた。一日に一冊だと読みすぎてしまうし、この辺ではあまり店がないから走らなきゃ買いに行けない。本当にありがとう。ぼくが遺書を書くとしたら、「やっさん様ぼくがいつも名前を忘れてしまうお酒美味しゅうございました。オムライス、ハムも美味しゅうございました……」と書き連ねる中にこの本の御礼を書きたいと思います(これはジョークです)。ぼくのジョークは冷笑的すぎるな。円谷幸吉ではなく、木村久夫をパロディして遺書を書こうとも考えたが、そもそもが死ぬ予定がないし、伝わらないだろうと思ってやめた。

 本当は百パーセントの笑顔と声だけで感謝を伝えたい。でも、笑顔と声、もしくは文字、文章でぼくの感謝の気持ちに敵うほどの表現ができない。大きな大きな感謝に、なんて言えばいいんだろう。そう考えるとぼくはいつも要らない自虐や冷笑を盛り込んでしまう。自分を下げて感謝を伝えてしまう……。ぼくの悪癖だ。本当に本当にありがとう。読みます。