保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院五日目

 前日、ナースに不安を訴えたところ、それがどう伝言ゲーム式に改ざんされていったのか、ぼくはあまり医者と話すことに積極的ではないというのに、医者と話すことが決定した。善意を止めるものはない。

 そもそも、病棟医はぼくの警戒に値する人物だったのだ。通院で何回か仕方なしに喋ったことはある。気の抜けた返事と洒脱な目付きで暖簾に腕押しと言った印象だった。それが病棟の面談に入るや、「靴下の色、一緒ですね。ユニクロ?」と聞いたのだ。ぼくはそれに社会的笑みを崩さないようにしながら、「そうですね。奇遇なこともあるものです」と言った。ぼくはこのような、人をやりすごす術ならなんでも知っているというような人間が苦手なのだ。やり過ごすことは人を見下している。そして、それを気づかれていないと思っていることはぼくに悟られている。それは必要なことだとはわかる。それも精神科医となればもっと。ぼくは精神科医という但し書きで、社会的笑みを見せることにした。

「今日も靴下一緒ですね」

「ほんとだ。ははは」

「頓服を変えるだとか、そういう話を聞いたんだけど」

「薬に不満は持っていません」

「頓服を自己管理にするとか?」

「ぼくは今、頓服に不満を持っていません。ぼくの薬に対する不安は薬の自己管理についての不安です。ここを出て、その時に自己管理できるか。退院した時に自己管理の下に薬が出されるか、という点なので」

「どうする? 自己管理にする?」

「いえ、ぼくの不安は自己管理が出来ないということについてなのです。なので、そのままナース側の管理でお願いします。それに頓服は退院したら出ないと思うので」

「頓服に不満?」

「昨晩、ぼくがナースに伝えたのは今、不安定であるということだけです」

 ぼくは慎重に言葉を選ぶため、緊張を紛らわせるため、匂いを嗅ぐみたいに目を瞑り、口を歌うように少し上にあげた。

「それがナースに伝わった時に、薬の種類の問題に差し替えられてしまったのです」

「ここのナースはね、ここのナースはそうなんだよ。すぐ薬の問題にしたがる。だからね、あんまり不安定だとか伝えるなら、僕に話したほうがいいよ」

「そうですね。この不安の問題は薬の問題ではなく、自分の問題だと思っているので。薬の種類でどうこうできるとは……」

「そうだね。それが気づいているって言うのはすごい……。その歳で。偉いよ。ここのナースは、実はあんまりろくなのがいないんだ。経験不足なんだよ」

「ははは。ですので、頓服薬に関する不満はありません。このままで結構です。このままで、ナース側の管理で。頓服薬というより、問題なのは不安に対する対処の方法なんです。その一つとしてナースに話しただけだったんです」

 病棟医はぼくの持っている文庫本の背表紙を見た。

「なかなか○÷×♪な本を持っているね」

「(聞き取れなかったがぼくはおそらく「物騒な題名」と言ったのだと仮定して)そうですね。ふふ。しかし、この本は題名とは全く関係ない話が延々続いています」

「そう……」

 病棟医が話を終わらせようと適当な世間話をし、ぼくは教育的でない本が親に見つかった子供のような反応をした。そして病棟医は去った。ぼくはお世辞にしろ褒められたことと、ぼくの考えが間違っていなかったこと、久しぶりに人と話したことで高揚した。いささかナースに飛び火が向かったが。

 以上が夕方五時に起こった話である。

 

 午前は特に何事もなく、文章を書いて終わった。あとは別段、風呂に入ったことだけだが、それを特筆するなんて隠居老人みたいだ。午後になって、友人からの本が五冊バラバラに届いたというので受け取った。食堂兼カフェーでずっとボリス・ヴィアンの『心臓抜き』を読んでいた。本編三百十数ページのうち、二百五十ページを読んだ。女性が隣に来て、書き物やスマホをいじったりしていた。風呂上がりのいい匂いがして、少し余分に息を吸い込んで気分が数センチ浮き上がった。風船みたいだ。

 食堂のお茶のドリンクバーで、同室で最も声が大きい人と初めて話した。

「同室の○○です」

「同室のたなかです」

「病院には慣れました?」

「いやー……、あっ、でも少し、生活リズムには慣れることができました」

「そっか。何かあったら話してね。僕はまともだから」

 奇遇ながらぼくもまともなんです。と言おうと思ったが、それを飲み込んで笑った。同室に同年代くらいの若い少年とぼくとその人(ぼくらの年代ではなく)しか居なかったので、勝手に怖い人だと思っていたが、少しはそんなことないようだ。

 

 いつか書こうと思っていたのだが、食堂兼カフェーには川が面している。ガラス張りの一面から川を眺めることができる。それといって素晴らしいわけではないのだが、他に見る場所があるでもなしでみんな川に対面するように座っている。今日は曇りで、いささか中国の小作人の村を思い起こさせる陰鬱な映りだった。ボートが川べりに滞在しているいつもの光景ながら、その陰鬱な画はぼくにこの文章を書かせる微力になった。

 今日は今までに比べて出来事があった。あまりにもミニマルすぎる生活。