保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院十一日目(外泊)

 昨日から外泊をして、いろんな所をほっつき歩いた。入院百日ぶんくらいの会話と行動。レコードを買い、服を買い、本を買い、足つぼマッサージに行き、寝間着を買ってもらい、お酒を頂き、美味しいタルトを頂いた。ひとつひとつに辞書に載ってるすべての言葉を使っても、この嬉しさや楽しさを表現出来ないだろう。ぼくはようやく、言葉より笑顔のほうがこういったことには饒舌だと知った。だから、昨晩は思いっきり笑った。ぼくは今までは楽しさを言葉にしては言葉に詰まった。本を読んでいる弊害というか、言葉にも表現できないことはあるということを忘れていた。ひとつの言葉を新たに作りあげないと、この感覚は、多幸感は言葉にできない。そして、言葉はできた瞬間に古びてしまう。

 多くの人に誕生日を祝っていただいた。そんなことは初めてのことだった。乾杯の言葉がぼくに向けられる。電気を消して蝋燭の光が周りを照らす。息を吹きかけて消すと、歌われるハッピーバースデー。ぼくはこういうのはフィクションの中にある物事だと思っていた。たとえば、ドラゴン、エスパー、そして祝われる誕生日……そんな風に。ディズニーランドのパレードみたいに、楽しいことが次々と現れる。集合写真の真ん中でピースするなんて、酒に酔ってうろ覚えの歌を歌うなんて。自分が自分でないみたいだ。楽しい人々、美味しいお酒、会話たち……。すべてへの感謝を口にしたい。すべてを愛している。シンフォニーが流れるようなひととき。

 ぼくは味をしめたから、来年まで図々しく生きていようと思う。中島らもの言うところの、「生きていてよかったと思うような夜」というのはこういうことなのかもしれない。酒を飲んで人生論をぶつ。次の日には忘れている。きらきらと輝いて、ぶれてしまった写真。そういう風に楽しかったことは過ぎていく。ぶれた写真を見て何があったかは思い出せなくても、写真を撮るような楽しかったことがあるというのはわかる。

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 それから、ぼくは家に帰って寝た。ぐっすりと。そして充足や満足の残った体を動かしてこの文章を書いている。何があったかを微に入り細に入り書こうと思ったけれど、やはり頭の中の記憶はぼけてうまくいかない。でも楽しかったことだけは覚えている。体にも頭にも残っている。楽しかったことを文章にするというのは本当に難しい。楽しさを書くには、戯作者である必要がある。そして、もっともっと酒飲みである必要がある。だから、もっと酒を飲んでいきたい。そのために長生きする。

 

 私信。

 本当に祝っていただいてありがとうございます。この場を借りて感謝と喜びを伝えます。