保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

読書感想文「いなごの日」

『いなごの日』ナサニエル・ウエス

 最近、ボリス・ヴィアンナサニエル・ウエストのように、諧謔的で、空虚で、ジョークがより一層冷たく響くような作家ばかり読んでいる。どちらも、あまり売れない作家だったし、売れなさはやはりその空虚さ、辛辣さにあるのだろう。ぼくはそういう作家が好きで、そういう作家から生き方を見出し、そしてその生き方のせいである種の人々を遠ざけてしまうのだった。

 ウエストもその作品の姿勢が人を遠ざけることには気づいていたようで、本が売れなかったことで編集者に「次は人の心の優しさに満ちた本にする」と言って、交通事故死でその約束をふいにした。やはり、なかなか人の心の優しさを描くのが難しかったのだろう。冷笑というか、少し離れたところから人々を見る書き方がこの作品には溢れている。主人公であるトッドはほとんど傍観者で、トッドが恋をしたフェイの周りで起きる物事が描かれる。

 冷笑的な痛々しさがストーリー後半を引きずっていく。悲恋の痛々しさを描かせたら、こういう作家の右に出る者はいないのかもしれない。人のしぐさや話し方などが、どうしようもなくその人を嫌わせてしまうということが悲しかった。

 ラストで一気に引き込まれた。三人称的な運びが、最後になって急に一人称のような運びになり、トッドが動くことになる。カメラがあって、今まで引きで撮っていたのが、クライマックスでカメラが増えて切り替えやアップで映すようになった感じ。今までジョークがぽつぽつとあるだけのようだったストーリーが、一つの長回しのラストシーンで何かを象徴していたのだと気付かされる。しかし、何を伝えたいのかはわからない。トッドが語り手から動く側へ映り、一気に読者は第三者の視点で物を見なければならなくなる。そこでさらに舞台がすべて空虚な笑いのための装置だと気付かされ、作品がなにか警句を言っていると感じ取るのだ。

 

 全体的に、この作品をもっと楽しむには、その時代の雰囲気やアメリカを知っていたら良かったんだろうなと思うところが多々あった。ジョークだろうなとはわかるけど、笑いどころがわからないあの感じ。それでもいくつかはクスッと笑える。でも、作者としてはジョークがわかる人がジョークを楽しみにして読めるように工夫しているんだろうなと思った。