保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院十四日目

 もう二週間かと思うのに、何回も時計を見ても進まない。昨日から、なんだか調子を崩してる。スマホを開くとライフハックが口うるさく、他人の人生を徒労と名誉で彩ろうとしてる。ぼくは人といたり、喋ったり、音楽を聴いたり、本を読んだりが好きです。無駄ばかりなんだ。それしかできないんだけどね。

 人がいない四人部屋でも、使えるスペースは変わらない。ラウンジではずっと中学生がゲームをしてる。ボイスチャットで、何十回も自己紹介してる。装備を整えて、毎日人を撃ってる。他の中学生は拒食症の脚を携えて、親に電話をしてる。努力を伝えてる。辛いとか困ってるとかを、つぶやく音量で電波に乗せてる。たぶん、親か子供かどっちかのせいでここにいるんだろう。カフェでは何人かがぼんやりしてる。みんな大きな窓のほうを向いているのが、光合成みたいで好きだ。眼鏡をかけた車椅子の人が、なにするでもなくいつもの場所に収まっているのが好きだ。ぼくは人の顔に光が射し込んで、人が外を見るのが好きだ。生活は祈りだ。人の祈りを見るとき、ぼくは性善説を簡単に信じる。隣に座ってきた人が爆音でEXILEを流すから、追い立てられるように立ち上がり、どこへも行けなくなった。

 

 調子が悪い時は、すべてが暗喩めいてきてしまう。すべてが宗教画みたいに意味のある光景に見える。そうしていると、自分はこの世界に意義があると勘違いをして、目をつぶるように死ねたらなあって思う。毎日、靴紐を結ぶように、ぴったりくる音楽があるんだと思う。昨日はキイチビール&ホーリーティッツの『透明電車が走る』をよく聴いた。今日はindigo la endの『すばらしい世界』を聴いた。そんなことが明日や一ヶ月後や一年後は馬鹿らしくなるかもしれない。でも、今の靴紐はこんな感じで、これが靴擦れしないようだ。快適っていうのは意識をしないことだ。意味を持たないことだ。なんだか落ち込んだ気分に靴を履かせて、今のところ落ち着いています。