保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院十五日目

 血液検査がまずかったのかもしれない。血を抜いて、朝飯に行くために立ったらふらつく。気分がいいとはいえない。パンもなんでも戻しそうだ。慎重に休みながら牛乳だけを飲んでふらふら戻る。

 今日も昨日のつづきか……。と思いながらぶっ倒れていると昼飯になる。昼飯はまあまあ食べれたが体が重い。頭の中も体の中も鉛を流されたみたいに動けない。昼飯後もベッドでぼんやりしていると、「気分どうですか」とナース。「動けない……」と言う。どんな時も笑みを欠かせないのがぼく流だ。つまり猿を師匠としている。そこからさらに二時間ただ横たわる。

 薬をもらって、なんとかカフェに。カフェって言っても毎回頼んでるわけじゃない。ドリンクバーの端に貯金箱があるだけで、人もいない。ドリンクバーの横のお茶を出す機械(こっちはただ)で熱いお茶をもらって飲む。死んだ目でぼんやりしてる。川は流れてるのか、水面の模様を変えてるだけなのかわからない。最近目が悪くなってる。

 幸いにも数ページ、本を読めた。幸いだ。何も出来ない時というのもある。ぶっ倒れて時間が背中を踏んでいくだけの時もある。そう考えると本を読んでいられるというのは僥倖に近い。

 かわいくなりてえなと思って、エクステとかを調べて金がやっぱかかるんだなって思ったりした。憂鬱や不幸の理由を自分に押し付けて、自己変革を求める時もある。かわいければなんとかなるってことを信仰する時もある。憂鬱はほとんどのところ病気で、実は状況やステータスは関係なかったりする。よく言われるのは、気の持ちようだということ。真実だとしても、本当のところは気を持つのは病気ということ。

 腹痛の時だけ神を慕うやつより、ぼくのほうがずっと祈ってるのにな。