保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

入院十九日目、その2

 なんだか、落ち着かない。ぼくの一番の友人が落ち着いていないことがわかっていたのも一因かもしれない。でも、彼は悪くない。ツイッターで生活が覗き見できる社会、その社会に参加している自分……。手持ち無沙汰だった。ぼくが煙草を吸う人間だったら二箱は空けていただろうな。そして徒らに時間と寿命を使っていただろう。かといって、ぼくが徒らじゃない時間の使い方をできていたかというと甚だ疑問だ。本を読んでいた。病室の馬鹿はずっとカーテンを開けて腹這いに横たわっている。年頃の裸の女だったら喜んでいたかもな……独りごちたが、現実は変わらない。若い肌に少し禿げ始めた男が腹這いになっている。サッカーボールなら思いっきり蹴飛ばしてやるのに。

 午後から二階で本を読み続けた。BGMとしてマウント・キンビーを聴いていた。落ち着かなくなると聴き慣れたロックバンドに変えた。落ち着かなくなる度にもっとうるさいバンドに変えた。カフェインのせいか、パンクロックまで(それもその中でノイジーなバンド)行き着いた。

 

 病院を歩いていると医者が話しかけてきた。

「どうですか?」

「調子がいいです。集中力がもって、本が読めます」

「薬はどうですか?」

「うーん、今まで通りです」

 二人とも手持ち無沙汰だった。どちらも望んでいない会話を、形式のためにしているだけなのだ。

「二十、二……? 退院でしたよね」

「そうですね、次の月曜です」

「なにか、入院で得られたことはありますか?」

「そうですね。集中力が戻ってきました。入院前はそうはいきませんでしたから。あと、生活を出来たのが収穫ですね」

「それは薬の影響って感じはしませんか?」

 ぼくの「今まで通り」を医者は悪く捉えていたのだろう。ぼくは噴き出したように「そうですね」と言った。まあ、何一つ面白いことはなかったが、そのほうが好感を得られるのではないかという考えに則って出来た癖だった。会話は終わった。

 そもそも、どこからどこまでが薬の影響かなんてわかりっこない。宗教に似てるのだ。成果は信者からのほうがとりやすい。自分の考えや気分がどこからどこまでが薬のせいかなんてわからない。ぼくはそもそも自分が何を考えているかだとかに不感症だった。精神科に必要なのはその分野で使うことのできる鏡か体温計なのだ……。自分のことは自分で見ることはできない。

 それと、周りを見て、感じたこととして、人間の調子はグラフのように、最高のところと最低のところの距離が最長になるようにできていないということだ。調子は点在する。徐々に変わっていくということは少ない気がする。

 

 本の中に戻れば恋愛と孤独について書かれていた。なるほど。恋愛について思うのは、それが命さえ奪う暇つぶしであり、エンターテイメントだということだ。エンターテイメントの第一として、危険がなくてはならない。そうやってぼくたちは暇をつぶす。そして暇をつぶす物の大半と同じように寿命が縮む。暇つぶしは今と最後から同時に時間を奪うようになってる。煙草なんてその最たる物だろう。

 

 落ち着かないからか、病院の暮らしにまたチューンナップしてる途中だからか、様々なことを考える。そして友達や多くの人が直面している問題がなるべく易しい物になるように祈ってる。大きな音で音楽を聴く。聴きなれた曲が知らない物事を遠ざけるように。聴きなれた曲が自分の世界と外の世界を区分するように。