保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

騙るに堕ちる前に

はじめに

 よく人に「人生を本にしたらいい」と言われる。本当にいろんな人に言われる。友達、バーで隣にいた人、友達、ぼくの疑似家族の父親、親友、初対面のへにゃって笑い方をする男、知り合いの売女、初対面の売女……。
 でも文章にするってことは、作り話の隣に並ぶってことだし、作り話の隣に並ぶ本当の話を書くことに長いこと躊躇していた。本当の話のフィールドでしか、本当の話をしたことがなかった。現実は本当の話のフィールドだ。文字の世界は作り話のフィールドだ。一度、大学の授業で小説を書いた。ハードボイルドとハンプティダンプティに関するジョークだったと思う。まだぼくに食べ残しみたいな冷笑が染み付いていた頃だ。書き方はうまいが、話の筋がねじれすぎていると言われた。しかし、大学を辞めるときに、同じゼミの女の子に「世界観が独特でいいと思った。他にも書いてみてほしい」と言われた。ほとんど喋ったことはない子だった。しかし、褒められることが本当に少ないから、ぼくは創作における神様として、今もその言葉にしがみついている。

 本なんか書くのは汚点を遺すためだ。自分の人生を文字にすること、人生なんか恥で当たり前だが、文章にすることには技巧がいる。その時の感傷が文字からは滲み出る。書いている当時は五年前が愛おしくて、七年前は恨んでいるというふうにすぐにわかる。喋りより書くことの方がそれを隠すのは難しい。より恥ずかしい。物を書くというのは。この本には様々な時期に書かれた文章が混在している。それを少し直すことはできても、ほとんど直すことはできない。書いたときに思ったように書き、それは紙粘土みたいに乾いて大きな修正は許さないからだ。固まったらもう諦めるしかない。できるのは何色を塗るかだ。
 人間は一貫性のある唯一の生き物だと、思っているようなら書くことはたやすい。しかし、真実は人間は一貫性のない唯一の生き物だ。それがわかっていれば書くことはとても難しくなる。
 それでもぼくは書こうと思う。理由はわからない。なにか人に見せたかったのかもしれない。他人に見られることによって存在を確かめたかったのかもしれない。もしくは単に入院して暇になったからかもしれない。いろんな勧めてくれた人に、すかしっ屁を嗅がせてしまうかもしれない。しかし、誠実に語ろうと思うのは本当に数少ないことだ。歳を取れば取るほど、過去は素晴らしくなっていく。細部は忘れて嘘になっていく。本当の輪郭がどんどんとキラキラした嘘になっていく。早く書こう。すべてを語るに落ちようと思う。騙るに堕ちる前に。

 

 

少年時代
 子供時代のことを少年時代と呼ぶのはなんだかむず痒い。自分が少年だっただろうか。そして、昔が少年なら、今は少年ではないのだろうか。十年後、自分がちんこを切除していたら昔を少年時代と呼べるだろう。何にせよ、ぼくが少年時代と呼称したいのは、その時まだ(俗な言い方だが)目覚めてなかったからである。

 子供の頃の最初の記憶は、弟が生まれるという時に、家で父親とカップラーメンを食べていた記憶だ。薄暗く、カメラはやや上方からぼくと父親を写している。赤子用の柵のついたベッドがあり、その隣の大きな平机でぼくと父親はカップラーメンを食べている。黙々と。
 そのような記憶が最初だな、となんとなく両親に話したが、両親はそんなことあるまいと否定した。なので、ぼくの幼少期の記憶はどれが本物なのか、全くわからないのである。
 ともかく、最初の記憶で主要な登場人物は出た。父親、母親、ぼく、弟。笑うにはややこしすぎるし、まともに語るにはぬるぬるとして捉えどころがないけれど、頑張って語ろうと思う。

 子供の頃はどちらかというまでもなく内気な子供だった。ビデオが流行っていた時代で、父親は撮りためたビデオを見ることに休みを費やしていたから、その横で父親の好きな深夜番組を見ていた。外で誰かと遊ぶということはほとんどなかった。あいのりや電波少年の時代だ。少し時代がさがって電車男とか。父親と枝豆を分け合う。たまに身体を動かしたくなるとプロレスごっこをした。いつもぼくが負け役だったが、父親とする遊びはそれくらいしかなかったのでそれなりに楽しかった。そもそも親子のプロレスごっこって基本子供の成長していくパワーを楽しむものではないのか。押し倒した子供の股を開き、ひっくり返った蛙のような子供を身動き取れなくする、という、プロレスというより馬鹿が考えたヨガみたいな体勢を楽しんでいた。今考えればそれはまんぐり返しという性技だ。幼き我が子に性技をかけないでほしい。まんぐり返しのぼくに押さえつけるという名目で腰を押し付け、めちゃくちゃ鼻息を荒くする(流石にこれは演技だと思う)というプロレス技はない。あっても男色ディーノしか使わないと思う。
 その当時は全くプロレス技だと信じて疑わなかった。中学に入っても性に詳しくなっても、暫くは気付かなかった。そもそも父親と自分が性欲で繋がるのはキツすぎる。パパ活よりパパ活している。中学三年生の時に、父親のDVD棚(その頃には父はVHSをDVDにダビングしていた)からなにか見ようと思って適当に再生したら、おそらくVHSからダビングした荒い画質で「プロレス技」と同じ体位で幼女がぶち込まれていた。無修正ロリDVDで学んだ性技を息子でチャレンジしないでほしい。そもそも無修正ロリDVDを持たないで欲しい。
 そんな父もフェチが変わるのか、最近実家に帰ったらクローゼットに氏賀Y太(猟奇的、スプラッタ的エロ漫画家)の漫画がびっしりと置いてあった。氏賀Y太にハマるのが早かったらぼくは流血していたのかもしれない。よかった。ぼくは筋肉少女帯にハマって流血している。

 小学生の頃に『NHKにようこそ!』から滝本竜彦大槻ケンヂと、メンヘラコース1Aとも言うべきコースを進み、さらに太宰治の『人間失格』を読んだ。今は二十歳も過ぎているが、未だに『人間失格』のはしかは治っていない気がする。太宰治ニルヴァーナのように憧れてしまう堕落だ。そしてそのうち、堕落が板についてくる。「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」フロム徒然草だ。ぼくは高校卒業までに三回青森に行って太宰治聖地巡礼したし、大学でも太宰治についてのゼミに入るくらい、長い長いはしかにかかっている。
 太宰治のすごいところは「この人はぼくのことを書いている」と誰にでも思わせている点だ。八方美人の人たらしと言ってもいいだろう。それに気づかず、ぼくは太宰治ガチ恋してしまう。ぼくも不幸と言えば不幸と言えるくらいの不幸はあった。『アイデン・アンド・ティティ』(みうらじゅん)式の不幸ではないことが不幸ということはなかった。父親は変な宗教にハマっていたし、弟はてんかんと四肢の麻痺で何も出来なかった。今となっては飾り飽きた不幸のことは考えないけれど、昔からすれば不幸は真新しい服のようだった。
 太宰治式に周りの子供を笑わせるなんてとても簡単だったし、それを冷めた目で見ている。賢いふりの嫌な子供だった。元々、父親に好かれようと、図書室で本ばかり読んでいたが、(当たり前だが)あまりにも友達が出来ないので、2ちゃんねるの小噺をすべて自分が体験したかのように喋ることで友人を得た。
 親が子供を愛しているのか? という思いを長きにわたって持ちすぎたのが良くなかった。そんな思いは赤子を卒業したら捨てるべきだが、親はずっと弟に懸かりっきりだったから、父親のまんぐり返しが唯一の親とのコミュニケートだった。
 物心がつき始めた頃に、クリスマスプレゼントにゴミを貰ったことがある。楽しみにサンタにプレゼントを伝え、サンタが来るのに備え、大きな靴下を飾った。翌朝起きた時、中に入っていたのはゴミだった。混乱しながら両親に説明を求めると、「うーん、いい子じゃなかったからじゃない?」と言われた。それからクリスマスの朝は持ち物にゴミがぶち込まれてないかを探すという日課になった。サンタが親だということを知ってからは、親の言った「悪い子だとサンタじゃなくてヨンタが来るんだよ」というクソつまらない言葉を思い出す度に呆れや怒りと同じような脱力が体を襲う。なんだよヨンタって、一太郎三四郎みたいなネーミングをするな。
 そういうこともあって、両親の問題は真新しい不幸だった。

 それに、父親は変な新興宗教にハマっていた。検索すると信者の暴行事件のNAVERまとめが一番最初に出るくらいイカれたところだ。父親の不定期の休みが土日と重なる度にぼくを地元の会館(と言っても狭い掘っ建て小屋だ)に連れていき、本部のビデオを見せられる。正直、とてつもなく暇だ。二時間三時間、 本部のおっさんおばさんが「信じたら報われました!」的な進研ゼミ的成功体験をかわるがわる語るのだ。ぼくら信者はプロジェクターを前に正座して観る。正直、ここには信者しかいないのだから、入りましょう的ビデオに意味ないだろと思ってよく抜け出した。抜け出すと言っても周りは山中なのでなにもない。ゲームも持っていないのでぼんやり自然を眺めていた。たまに、父親の同僚がそれを見かねて自販機の飲み物を買ってくれる。コーラやジュースだと長く楽しめない(すぐ飲み干してしまう)。お茶は論外。と考えた挙句、ぼくはいつも缶コーヒーを買ってもらっていた。缶コーヒーの中でもデザインが好きなもの。それはミュシャの絵が描いてあって、じーっと眺めるのに適していた。ぼくはその缶コーヒーのおじさんが好きだった。
 父親は急にその宗教をやめた。
 父親は電話をしていて、急に家中に響くような大声で「原爆は落ちなかったじゃないか!」と言い、ぼくは父親が真面目に予言を信じていたことに落ち込んだ。それから缶コーヒーのおじさんと会うことはなくなった。
 たまに父親がテレビを見ながら「キリスト教徒は進化論を信じてないんだ」とかそういうことをぼくに教えることがある。その度に「ほとんどの人間は予言を信じないよ」と言いたくなるのを堪えている。

 高校に入り、親へのフラストレーションもピークに達するようになる。そもそも、高校だって親が決めた。その辺りで一番の進学校だった(田舎の進学校なので、バカが賢いふりして入れる最上級のところだ)。そこ以外はダメで、そこに落ちたら無一文で放り出すと言われたから仕方なく勉強した。後期入試でなんとか合格し、賢い馬鹿の中の下の方になれた。親は近所の人や知り合いに、嬉しそうに喧伝したが、ぼくはただただやめてほしかった。恥ずかしいだけだよ。賢い馬鹿の中のさらに馬鹿の方なんだから……。そういうこともフラストレーションを加熱させた。
 すべてに細かかったり、人格を全て否定するようなコミュニケーション(よく、悪口でしか人と関われないような人がいるだろう。それが両親だ)、弟のぶん割を食っているのにそのことは見て見ないフリをされたり、家庭内の代理戦争としてぼくを取り合ったり、父親のマイナスからゼロへと成り上がった話、何につけても辛かった。
 同じことで何十回も嗤われる生活が続き、最終的にぼくは手首を切った。手首を切ることによってなにか、心配されるのでは、とウブな期待によって切ったが、それは徒労に終わった。手首を切り(初めてだから加減がわからず、今にも赤くケロイドとして残っている)、ムカついたので父親の部屋の仏壇を自分の血で塗りあげた。父親のいない部屋でぶっ倒れておこうと、眠っていたら、父親が一番最初にぼくを見つけ、「何をやっているんだ!」と叫んだ。そしてぼくの元へと近寄り、仏壇を拭き始めた。ぼくは?
 薬をたらふく飲んだのもあって、うざったい母親の追及はなんの助けにもならず、そもそも常に棘を含んだ物言いをするので、言葉さえも聞きたくなくなってぼくは自分の布団に入って寝た。
 翌日、遅めに起きると学校は休んだことになっていた。母親がまた追求してくる。
 おまえらが、むかつくんだよ。と言いたいのを飲み込む。
「学校は少しなら休んでいいからね」
 おまえらが、むかつくんだよ。と言いたいのを飲み込む。
「なにかあったの?」
 おまえらがむかつくんだよ! おれの物なんかなんもねえじゃねえかよ! 部屋におさがりのテレビと布団があって、それ以外何があるんだよ! 箪笥はあっても中に体操服しか入ってねえじゃねえかよ!
「辛いことがあったらなんでも言っていいからね」
 ……
 何を言っても伝わらない。日本語が下手なのかと思ったが、ぼくは国語の点数がいい。結局、何言ったって親のせいにならず、好きなものを買っていいと言われて、ユニクロに行った。コーネリアス電気グルーヴとコラボしたTシャツを買って三千円也。手首の価値は三千円。感情の発露は三千円。ぼくは高校での私服を必要とする用事をそれで全て済ました。もういい。なぜかぼくが仲良いとされていた母方の叔父の元に行ったりした。何一つ理解されず、ボコボコに殴られて終わった。もう何も望むべくはない。

 

 

中性時代
 中三から女性ホルモンを個人輸入して飲み始めた。なぜ飲み始めたかとよく聞かれるけれど、ぼくにもわからない。その頃のぼくと言ったら酷い見た目をしていたから、愛されるなら女性になってでも愛されたかったのだろう。月三千円くらいだったし、月三千円のお小遣いだったのでそれくらいなら、と思って毎月買っては飲んでいた。
 かといって、すぐ女性化するわけではないし、校則で男は短髪を強制されていたので、見た目は何も変わらなかった。これはそれ以降の話である。

 高校は思ったよりもつまらないところで、なにもすることがなかった。懲役三年というか、人生延期三年といった感じだ。吹奏楽部を三ヶ月くらいでやめると、ぼんやり帰宅部の生活をしていた。そのころmixiからSNSが流行り始めていた頃で、ご多分に盛れずぼくもツイッターやラインを始めていた。女性ホルモンを飲んでいたので、MtF(Male to Famale、男性から女性になろうとする人)やMtX(Male to X-gender 男性から男性でない性別になろうとする人)を探しては仲良くなっていた。
 初めての恋人と付き合ったのもその頃だ。ツイッターで知り合い、オフ会で出会った。恋人はMtFでレズだったが、酒場で語る時はそちらの方がウケるという非人道的理由でゲイの彼氏ということにしている。オブラートに包んでも女性に見えず、キノコのような髪型が細長すぎる人参型の顔を覆っていたし、タチでぼくのアナルを掘りたがったし、身長は百八十近かった。もう関係がないんだからこの描写を許して欲しい。
 初めて会った時、ぼくは自宅に招待した。そもそも、二人とも金がなかった。彼は二つか三つ歳が上で、高専を卒業する歳だった。ぼくの部屋にはなにもなく、二人はソファー代わりの布団の山に背中を預けた。横並びにテレビすらないぼくの部屋を見ながら話す。
 他愛もない話をしていた。彼が最近人(MtX)に恋をしたこと。その人に恋人がいて、実らなかったが、その人に慰めてもらったこと。その人の恋人から奪ってでも付き合いたいこと。無理だと思ったし、どうでもいいとさえ思ったけれど、それを表現するのをためらうくらいには若かったから、どうしようもなく相槌を打っていた。彼が恋をした人にもその人の恋人にも後々会ったが、どちらも綺麗な人だった。彼はどちらかがくっついてなかろうと、無理だったのだ。どうやっても無理なことはたくさんある。美醜はそのうちの一つだ。世界はタブーを明らかにしていき不平を平等にしていくが、美醜は未だにタブーのうちの一つだ。美醜の格差は身分の格差よりひどい。
 そうして話していると、彼が言った。
「フェラしてくれない?」
 ぼくの初めてのフェラだったが、彼の満足な勃起を持続させることすらできなかった。唾液でぺちゃぺちゃと音を立て、口の中でなんとも言えないペニスの味が広がる。そんなに臭くなかったと思う。たまに頭の上から頑張って高くしている男の声が呻くように喘いだ。彼の異様な声は今でも頭の中で容易に再生できる。広義のオカマの声が苦手でぼくはナチュラルな男の低音しか話すことが出来ない。親から受け継いだ、作意のある不似合いよりナチュラルな不似合いの方がまだマシという哲学もぼくに作用しているだろう。その哲学はぼくに「なにもするな」というブコウスキー的パンク精神を植え付けたままだ。
 その後、ぼくは彼のフェラチオを固辞し、結果ネコ(受け身)としてアナルをほじられた。家に親がいるからアナルの洗浄すらしてないアナルをほぐそうなんて、まあよくできるなとは思う。結果ぼくのアナルに三本指が入ったが、彼のちんぽは入らなかった。ぼくはたまに喘いでやるが、ホルモン飲んでからほとんど性欲が無くなっていたので、彼の諦めを待っていたようなものだった。ぼくも彼の顔がそんな好きではなかったけれど、彼としてもぼくの顔は勃起には値しなかったのだろう。
 それから毎月二回、ぼくが東京に行ったり、彼が地元に来たりして会っていた。ぼくが東京へ赴く時は彼はまだ一人暮らししてなかったし、彼の部屋にこっそり忍び込んでセックスなりただのお泊まりをしていた。彼の両親は声しか聞いたことがなかったけれど、今から思えば、多少はキチガイだったと思う。なぜかぼくを泊めることを異様に嫌い、ぼくや彼氏をオカマと甲高く罵り、そのためにぼくは彼の家にこっそり入らなくてはならなかった。
 彼の家は二階建てで一階に彼の部屋がある。一階のその先の二部屋とキッチンはゴミや使われてないもので溢れていたため、使われていなかった二階に彼の姉、両親は住んでいるらしく、ほとんど顔を合わせることはなかった。しかしたまに物置と化した部屋にものを取りに来て、ほとんど知らない人であるぼくを見つけては叫び、ぼくを叩き出した。
 ぼくと彼は物置に敷かれた布団の上でセックスをした。彼がホルモンを打ち始めると勃起がなくなり、挿入がなくなった。ぼくは取れるかと思うほど乳首を噛まれたりするようになった。


 高校も卒業に近づくと、進路を考えなければならなかった。高三になって、土曜日が模試に使われるようになっても彼の元に遊びに行ってたくらいなので、本当になにもする気なかった。彼の専業主婦にでも収まると思っていた。簡単に今以降を永遠にするのは若さの悪い癖だ。

 その頃、彼との共通の友人をママと呼んで、歪なままごとをしていた。友人はMtFで二十六かそこらだったと思う。ぼくは酒場で語って笑い話にするときは不妊の女性と呼ぶ。ママは美しかったし、女性に見えたし、不妊で悩んでいたからだ。
 ママと仲良くなったのはツイッター上でだった。その頃、ぼくは学校の健康診断で胸があるのがバレて、(法律で高校生までは健康診断の結果を親に直接伝えなければならないので)母親に直接電話がかけられたのだ。それで両親と断絶にも似た冷戦状態になってしまい、そもそもぼくは親の愛を欲していたので、ままごとでも親のように愛して欲しかった。そこで不妊のママにつけこんだ。
 年が明ける前に彼氏とぼくは大阪へ向かった。ママと遊ぶためだった。ママと大阪で遊んだ。どこへ行くよりもママの部屋でママと遊ぶのが楽しかった。ママは優しかった。
 一回、ママがメンタルを崩した。テレビを消して、カーテンを閉めて真っ暗な部屋。ベッドにママがいる。彼氏は大阪を遊びに外に出た。ぼくはずっとどうしたらいいかわからずぼんやりしていた。ママがおもむろに起き上がり、ぼくを呼ぶ。ママの側に座るとママは「ほんとうに……いい子ねえ」と言ってぼくを抱きしめた。苦しいくらいだった。「ママ……」暗がりでママの表情はわからなかったけど、黒目がぼくを見てたのがわかった。それからどのくらい抱きしめられていたのかはわからない。急にママは「ありがとね」と言って再び寝てしまった。ぼくはわけもわからずぼうっとした。
 二週間とちょっと滞在して、センター試験のために帰った。新幹線のホームで、ママを抱きしめた後に手を振った。その時、ママは「あまり、もう会わない方がいいかもね」と言った。「そんなことないよ! また会おう!」ぼくは新幹線に乗った。センター試験の数日前に帰っても両親は怒らなかったし、呆れたため息だけを吐きかけてきた。それから何回かママに会うことはあった。それから、ぼくは偏執的になってしまって自ずとママから身を引いた。

 センター試験の結果はまあまあだった。模試も受けてないから、どんな結果だってまあまあとしか思えないが、センター利用で明治に落ちて日大駒大武蔵大に受かった。センター利用以外する気はなかった。その当時から鬱の症状が酷く、動くのもきつい日だってあったためだ。父親が学費の一番安い(その当時は日大だけ学費の被災地割りがあったのだ)日大にしろと言ったので、駒大にした。そんな学びたいわけでもなく、父親が幼少期から呪いのように大学に行けと言っていたし、その呪いのせいで大学に行くことになった。
 もちろん親が金を出すわけがないし、親はぼくへの嫌がらせのために、家の金をすべて使い切ってしまった。ぼくが誠意が足りないだとか、勉強をしていなかったとか色々な理由をつけてぼくを詰ったが、そもそもぼくが大学に熱がないので、早く終わらせてくれという感じだった。結果、父親が親族から集めた金をぼくが借りたという形で借用書を書いた。行きたくもないが、行かないという選択肢はなかった。その頃には親への反抗というものは出来ないものとして学習されていた。反抗したところで辛い時間が長引くだけ。
 ぼくは成り上がるわけでもなく底辺に居続けているから、不幸を語るのはとても辛い。

 もちろん、親がぼくのために部屋を借りるなんてこともなかった。両親にとって、大学は入れば出れるものだし、自然と卒業できるものなのだ。子供がキャベツ畑にコウノトリ神話を信じるように。だから、丁度一人暮らしをしようとしていた彼の部屋に転がり込んだ。転がり込むしかなかった。卒業式の次の日には物を送って引っ越しをした。親は呑気に
「そんなに急がなくてもいいのに」
と言った。四月になれば勝手に部屋が地面から生えてくるとでも言いたいようだった。

 その頃には両親はぼくが女性ホルモンを飲んでることは知っていた。両親共ぼくの部屋を漁る癖があったし、ぼくは物を隠すのが下手だった。健康診断で「女性化乳房」という病名を戴き、それが親に電話で伝わった。正直に洗いざらい話したところ、正直に洗いざらい話した部分で両親は怒り、悲しみ、その他諸々をしていたので、少しは嘘をついてやればよかったかなと思った。と言っても、嘘をついて医者に行って神妙な顔つきをするのは嫌だった。
「なぜか……おっぱいが膨らんできたんです」
「うーむ、確かにAカップだね。男性ホルモンを打とう」
 髭を生やすために注射を受けるなんてごめんだ。髭が生えなければ異常というのは、考えてみればほとんどおかしな考えだ。一般的に髭が生えると診断されている人間が髭が生えず、胸が膨らめば病気になる。その逆も然り。同世代の女子全員に「女性化乳房」の診断を下してほしいよ、と思った。それかぼくの股間は「男性化性器」だな、とジョークでも言おうかと思ったたが、両親は正直な言葉を聞くには常軌を逸していたし、正直な言葉を求めていなかったと思う。
 家で多くの言葉が飛び交ったけれど、ぼくの頭の上を物が飛んでいるような感じで、ぼくの気持ちだとかに触れることはなかった。両親はなにか哲学的な話か観念的な話でもしてるんじゃないかと思った。ぼくの気持ちは変わることがなく、両親の心の拠り所である世間体というのも変わることがないので、両親はスクールカウンセラーになにか言うように仕向けた。
 ぼくとスクールカウンセラーと母親の三者面談が始まった。母親はぼくの気持ちを推定するだけではなく、断定して、「あなた今の考えは本当の気持ちではない!」とぼくに向かって言い放った。ぼくは悪魔祓いにでも参加してるのかと思った。スクールカウンセラーは何か言うごとに同意を示した。「ですよねえ」
「この頃の子供がそういうことを考えるのはよくあることでしょう」
「そうですねえ」
「気の迷いで体をふいにして欲しくないのよ」
「ですねえ」
「体に悪いんでしょう? ああいう薬って」
「そうだと思いますよ」
「それにこの子が女装したって気持ち悪いだけですよ」
「ですよね」
 そんな感じ。十対ゼロで味方されないこともある。それがスクールカウンセラーだろうと。親だろうと。
 スクールカウンセラーとは仲がいいと思っていた。何回か相談したことがあったし、それ以降はスクールカウンセラーからぼくを指名して、みんながホームルームをやっている時間、クッキーを食べながらスクールカウンセラーの娘についての愚痴を聞いていたからだ。スクールカウンセラーカウンセラーとして働き口を見つけたいものである。

 

 

流血時代
 初めは好調だった。ぼくの大学生活は好調とは言えなかったが、一人友人は出来たし、それで満足せざるを得なかった。
 入ったのは国文科だったので、ほとんどが女子とチャラい男子で占められていた。チャラい男子とは仲良くなれそうもないのでおとなしい女子と仲良くしようと思ったが、一緒にサークル見学してるところを撒かれたり、直接断られたりした。やはり美醜は身分制のようなタブーだ。しかし、一人だけ友人になれたし、三年生になって必修が減り、ばらばらになるまではよくつるんでいた。
 その頃にはぼくはほとんど気が狂い始めていて、ツイッターで人を馬鹿にしたり、毎日薬をたらふく飲んだりしていた。その頃、ぼくはたなかを名乗り始めた。本名だと「あいつがインターネットで色々言ってた野郎だな」と思われるかもしれないからだ。バンドのたまは「いついなくなってもいいような猫の名前」をつけたという。ぼくも、いついなくなってもいいような人間の名前としてたなかを名乗ったのかもしれない。
 ちなみに、ツイッターでは「今日は女性ホルモンを打ってきました」などと言っていたので、大学ではすぐに「あいつがたなかだな」と(オカマが他にいなかったため)すぐにバレた。

 大学は退屈でしかなかったが、帰るよりはマシだった。最初は良かったが、彼が会社に合わず、毎日心をすり減らして帰ってきた。そんな彼にぼくは胸を触らせたり、乳首を口に含ませたりして、なんとかなだめていた。毎日赤ちゃん返りした彼氏に乳をやるのはなかなか難しい。それに、こちらもメンタルの調子が悪く、徐々に駄目になっていった。その頃にはセックスはなかった。ぼくがセックスについて積極的でないと、率直に言った。それから数週間して彼はぼくにセフレを作ることの許可を得に来た。別にいいけどさ。
 別れる頃には、彼はブラジャーを着用して会社に来ているという理由でクビになりかけていた。
 ある日、ぼくは近くのTSUTAYAで借りてきた『ブギーナイツ』を観ていた。彼は先に寝ている。ぼくはパソコンをロフトに持っていった。暗がりの中映画の再生を始めた。『ブギーナイツ』の疑似家庭的繋がりとその崩壊が自分の身にしみた。ママ……。それにフリークスにすぎるぼくたち……。観終わった時、ぼくは死のうと思った。彼の薬箱と、ぼくの薬箱を攫い、全ての薬をジャックダニエルで飲んだ。

 天国かと思ったら自室だった。翌朝かと思ったら、翌々日だった。三十二時間寝て、ぼくはあっけなく生き延びてしまった。机には紙があった。「もうついていけない」とかそういうことが書いてあったと思う。とりあえず今日は平日だったはずだ。大学へ行かなきゃ。
 大学へ向かう最中、自分の体に痣が何個かあるのがわかった。彼に電話をかけるとつっけんどんでぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
「何を言ってもYouTubeを観てるのが悪いんだ」
 YouTube? ぼくは睡眠薬で眠っていたはずなのに……。ただ一つ考えられるのは、ぼくが彼にぶん殴られたことだ。
 帰るのが恐ろしく思え、インターネットで泊まれるところを探した。そうすると、運良くシェアハウスの管理人がぼくに声をかけてきて、そこに泊まることになった。即日、荷物をまとめ、友達(レズ)に荷物を持ってもらい、シェアハウスに向かった。
 シェアハウスに居たのは十日とかそこらだったと思う。金もなくなってしまうし、彼が正気を取り戻したので帰った。ぼくもいささか正気を取り戻していたと思う。シェアハウスにはオカマとバイとレズのカップルと引きこもりが居たが、ほとんどの人間と喋ることはなかった。流石にオカマとバイとレズ二人と仲良くできるコミュ力がなかった。バイだけがやけに優しくしてくれ、飯も何回かおごってもらった。飯を食べていると、友達のレズからラインが来ていた。
「そこに住んでるバイに気をつけてね。私しつこく狙われたから」
 いやいや、まさか……まさかとも言い切れないが……。飯の最中、バイは「あっ、やべっ」と言って立ち上がった。
「どうしたんすか? 用事?」
「いやー、俺三股しちゃって今訴えられてるんだよねー」
 よくわからないが、頑張ってほしいと思った。司法と正義に。

 彼の部屋に結局すぐに戻ったが、彼とぼくは上手くいかなかった。結局、彼は仕事を辞めたし(ブラジャーのために殉死した偉大なる戦士の一人に数えたい)、ぼくも毎日彼に乳をやるのに疲れていた。

 大学のサークルの同期と一緒に住むことにした。ぼくは奨学金を崩して日がな一日天井を眺めていた。同期が部屋にいる時はとてもくだらない話をしていた。しかし、同期は金がなかったし、奨学金も親に毟られている(この表現が正しいかどうかはわからない。同期は親を愛していたから悪い表現をすれば彼は怒るかもしれない。が、実際問題、金も必要だった)。彼は居酒屋のキャッチをしていて、時折、上手くキャッチできた話をしていた。それが金銭面の必要上、体験的にホストをやることになり、持続的にホストをやることになった。そうなると、彼は夕方に家を出て、昼間に帰る生活になった。よく、凄まじい寝過ごしの話を聞いた。山手線を三周してから、最寄りの駅を二回通り過ぎたとか。それをぼくは笑いながら聞いていたけれど、今となっては体を売っていたんだと思う。それをごまかしていたのだろう。その実、ぼくの友達は身体を売った話を彼から聞いた。
 死ぬほど晴れた日だった。常に翳っているぼくの部屋で一人天井を眺めていた。小便をしようと立ち上がると、アパートの勝手口から日が射していた。死のうと思った。
 ぼくは遺書も書かずに、風呂を沸かし、最寄りのドラッグストアで剃刀と酒を買った。薬を酒で飲む。酒を飲み慣れていないので、ひと瓶の半分が残った。ケツから飲むか。鏡月は細いところが長いので、ケツから飲むのに適していると思ったが、実のところそうではない。全長が長いので、瓶がうまいことケツに入っても、酒が注がれるように傾けるのは難しい。ケツで酒を飲もうとする人間がいるのかわからないが、もし、そうしたい人がいるなら我ながら有用なアドバイスだと思う。それか浣腸器を買うと良い。かなり手こずったが、それでも酒は残り四分の一くらいになったと思う。風呂の中で剃刀で左手をめためたに切ってやった。よくやったと思った。ツイッターかラインでいろんな人間に感謝の言葉を述べた。実際のところ、怨みによって死ぬのではない場合、感謝が一番に出てくると思うし、そういう人はわりかし多いだろう。
 酒でぐうぐう寝ていたらチャイムが鳴った。おい、どういうことだよ。天使のお迎えはチャイムを鳴らしてやってくるのか? と思って裸のまま玄関を開けた。友人と友人の知り合いがいた。
「ああ、どうも」
 死にかけてるにしてはまともで、裸にしては間の抜けた言葉をぼくが言うと、友人はてきぱきと処置をし始めた。救急車に乗せられ、隣の市の病院に向かっているらしい。
「傷口がふやけてるけど、なにかした?」
 救急隊員が聞く。
「風呂に入ってました」
「ああ、そう」
 救急隊員が笑った。たぶん、風呂で手首切っても死なないんだろう。浅知恵を笑われる形になった。
「もう救急しかやってないんだよなあ」
 ぼやくように救急隊員が言った。ぼくは力を振り絞って言った。
「すいません! 寝ます!」

 病院に着き、なぜか車椅子に乗せられ、診察室へ。たぶんふらふらして危なかったんだと思う。
「どうしたの?」
 老人の域に足を突っ込んでるような、くたびれた医者だった。
「死のうと思って」
「ふふっ、そうか。ちょっと傷を見せてね」
 また浅知恵を笑われたが、その頃にはどうでもよかった。
「先生、これは縫いますか?」
「縫うだろうねえ」
「麻酔はありますか?」
「必要ないでしょう」
「ないんですね……。先生。実のところ、ぼくは痛いのが嫌いなんですよ」
 医者は少し噴出すように笑い、
「じゃあね、そういうことするんじゃないよ」
と笑顔を見せた。笑われるより笑わせるほうが好きだな。
 保険証しか入ってないサイフしか持ってきてなかったので、友達にお金を払ってもらい、コンビニで金を下ろしてすぐさま払う。隣の市からどうやって帰ったのかは定かではない。確かまだ街は明るかったはずだから、季節外れの半袖と白包帯で帰ったのだと思う。

 そういう、命の綱渡りを何回もしていたので、いい加減親元に連れ戻されることになった。同期は客の使ってないマンションを使っていたらしいし、大学を辞めることにしていた。全てが後味の悪いラストシーンかのようだったが、そう思うことでいささか救われてはいた。映画の主人公がいつも若いのは、主人公になりたがるのは若者だからだ。ぼくは大学を辞める決心がつかず、週に二、三日は大学に行って、どう考えても卒業に向かうわけでもない時間分、授業に行っていた。

 大学のスクールカウンセラーは嫌いだった。高校のスクールカウンセラーも嫌いだったが、大学のスクールカウンセラーはもっと鼻に付く奴ばかりだった。奴らは隙があれば分析したがり、型にはめたがった。分析されるのはごめんだ。
 保健室にぼくはよく行っていた。スクールカウンセラーは保健室には来ないし、ベッドがあってよく眠れるし、保健室の先生とは仲が良かった。学校に週一で来る内科医とも仲良くなった。
 ぼくはゼミに出たくない、飲み会に出たくないなど、薬をたらふく飲んでくたばるように眠っていることがよくあった。校医はそんなぼくを見かけては「君には狂気はあるけど勇気はないね」と言った。これはぼくの友人、森を大いに笑わせて、時折彼が僕をからかうのに使った。
 校医は変わった人間で、年寄り特有の大局観に優れ細部に気を払わない気質を持っていた。ぼくは気にしやすい性質なので、校医からためにならないアドバイスを受け、秘伝の技みたいに遠いところの物事だと受け流していた。授業が難しい教授は名前を検索して悪く言われてるのを見て心を休めろ。最悪、何も出来なくなったら新興自給自足コミューンに行け。などなど……。今となってもかつてでも話半分にしか聞けないようなアドバイスだ。自給自足コミューンについて、余裕があるときに検索したら悪評しか出てこなかった。それに校医は「俺は行ったことないけど」と言っていた。適当だ。

 

 

流転時代
 同期と住み始めてから、出会い系をよくやるようになった。人に飢えていたんだろう。女の子とライブに行ったり、美術館に行ったりしたと思う。そうしていると、どちらかの急な発作により関係が切れる。よくある話だ。
 特筆に値するのは三人いる。特筆のためには愛と誠実さが対立することはよくあるが、なるべく愛のためにリアリティを用いるということで許してもらおう。愛のため以外にリアリティを使う人間になるともう少し特筆する人物がいる。それは追々話すことにする。
 一人は森だ。初めて会ったのはぼくが十九になったかならないかの頃だった。肌寒くなってきた頃だったと思う。今でも付き合いがあるので長い付き合いだ。ぼくは出会い系で恋人をさほど求めていなかった。喋り相手が欲しいくらいだったので、性別の欄を「全体」にして、話し相手を探していた。その頃、ぼくはおかっぱで女性に見えなくもなかったので、男好きと思われることも少なくなかった。
 誰にでも話しかける訳ではなく、趣味が合いそうな人間にだけだった。森はそのうってつけの人間だった。裸のラリーズ灰野敬二阿部薫……。二人とも、こんなに知ってるやつ他にいるかよという感じだった。すぐに会うことになって、新宿で会うことにした。と言ってもその頃は二人とも神奈川に住んでいたので、結局ぼくの最寄駅で「どうも」と言い合った。新宿まで行き、レコード屋を見て、「これ知ってる?」「知ってる知ってる!」と繰り返す。二人で海鮮丼を食べた。ぼくがお金を出そうとすると、彼は「いいよいいよ」と制した。
「えっ、いやいや。そんな歳変わらないでしょ」
「俺サバ読んでるんだわ。二十三にしてたけど、二十六なんだよね。見えないっしょ?」
「見えないけどさ」
 ぼくは大笑いした。そして奢ってもらい、秘密を共有した仲の良さが形成された。今、ぼくの話し方の数割は彼によるところだし、ぼくのレールの外れ方は彼によるところが大半だ。ぼくはもっと慎ましやかで、おしとやかな人間だったのだ。その当時は。
 その当時は、ぼくと彼は二人とも流転時代と言える有様だった。彼は休日の度にいろんな女の元へ行っていて、女たちは電話をするにも予約を入れる必要があった。ぼくはそれほどではないにしろ女たちと話し、たまに女のいる所へと誘われるがままついていったりした。ぼくが知り合いのチャットレディから聞いた話をすると、彼はまた彼の知り合いのチャットレディから聞いた話をして、結局、同じチャットレディの知り合いだったことがある。最近になって同じ女とセックスしていたことがわかって大笑いした。その後、それが美しくない女だったので、二人で「同じ轍を踏んだな~」と神妙な顔をした。
 それから、新宿の女装クラブに出入りして遊んだり、彼がオカマバーで働き始めたり、いろんなことがあった。彼が街中で手首を切ったり、様々な錯乱の時代もあったが、未だにぼくらは仲がいい。そしてそれは素晴らしいことだ。

 もう二人は夫婦だった。どちらも病気だった。その当時にはぼくもうつ病を抱えていた。ぼくが出会い系(かツイッター)でいろんな人と話していると、音楽の趣味の合う女性がいた。ロックが好きだった。森にしろ、この人にしろ、道端で出会うロックバーにしろ、音楽は巡り合わせのように最高だと思う。ただ話すだけの日々が続いて、それが自然とそうなるように会うことになった。
 確か、ゆきさん(と、ぼくは呼んだことがない。なんとなくネットの呼び方を引きずるようにハンドルネームで呼んだり、「ねえねえ」と呼んで、と結局なんと呼べばいいのかわからなくなった)ツイッターで話していると、その旦那さん(苗字から鳥さんとぼくは読んでいる)が話しかけてきて、三人とも仲良くなったのだ。部屋に入ると、多くの書物と家具の中に二人がいた。リラックスするのにあまり時間はかからなかった。二人用のベッドに川の字になって眠った。鳥さんがぼくにキスをした。親と子のスキンシップ的なキスだろう。ゆきさんがそれを咎めた。おそらく、三者三様にどうしようもなかった。病気は気分を動かしてしまう。チェスの駒みたいに自分ではどうしようもないのだ。ぼくは半自動的にやりたくもないのに人をやり込めて、自己嫌悪に殺されそうになることもある。二人はベッドとソファに分かれて眠った。ぼくはゆきさんの方について眠った。
「ごめんなさい」
「たなかは悪くないから」
 今となれば悪い人はいないのかもしれないとさえ思える。それでもぼくたちは三人で居続けたし、そして時間が経って、呆気なく二人は離婚してしまった。なぜなのかは知らない。それぞれの気分に巻き込まれないように、遠ざかることも必要だというのがぼくの哲学になっていた。それを実践し始めていた時に、気付けば離婚していたので、詳しいことはわからない。それまでに何回か会ったし、何回か話したし、何回か手紙を出し合った。
 性同一性障害(ということになっている。そしてそれが他人が思うより意味があるようには思えない)のために、ぼくは名前が必要だった。いつまでも本名では、本名から伸びた鎖の範囲でしか動けないことを悟っていた。しかし、ぼくには名前を考える能力がなかった。恋人には「君が呼びたいように呼べよ」と言っていたことすらあった。そしてまごつくのなら、近場にあった本から名前を付けたこともあった。一時期ぼくは絵理だったが、なかなか据わりが悪いので、恋人と別れた時名乗るのをやめた。
 夫婦に名前を付けてもらうことにした。ぼくは今でも夫婦の子供だと思っている。そのごっこ遊びは三人とも気に入っていた。
 そして夫婦は別れた。
 そして夫婦からもらったぼくの名前だけが残った。それだけでも上等だと思う。愛する人々に墓に刻む名前を変えてもらうなんてほとんどの人間にはないんだから。

 

 

過ぎていった人々
 語るほどってなったら、誰がいるかなあと思う。過ぎていった人々はその時ぼくに大きな傷跡を残すこともあるけど、傷跡は治る。治らなくても慣れる。だから何を言えばいいか。

 最も直近の恋人は既婚者だった。その当時に三歳か四歳の子供もいたらしい。出会い系で知り合った。ぼくは出会い系サイトのプロフィールに不幸を書き連ねたり、ポエムを書いていたりした。その一種、異様な雰囲気を心配してくれて、元カノはメッセージを送ってくれた。連絡先を交換し、四六時中連絡を取り合った。初めは元カノからぼくに付き合いたいと言った。一回は流石に既婚者ということもあり断った。そうすると元カノはぼくのママ的な存在でいいと言った。それもいい。

 しかし、まだ付き合うには至っていなかったので、他の女の家に行くことはあった。そもそも、向こうが既婚者なのだからいいだろう。それがまずかった。躁鬱だかうつ病だかの女の家に行った。往復の金は出すと言われたのが決め手となった。その当時、ぼくは実家から東京の病院に通っていて、働いてもなく金もなかったのだ。女は眠ろうとするまでは普通だったのだが、ベッドに着くなり態度を豹変させた。
「首を噛んでいい?」
「いいよ」
 甘噛みだと思っていたが、本気で噛んできた。喉仏が小さくなって声が高くなるかと思った。それか喉に穴が開いてそこから息ができるようになるか。
「意外と力強いんだね」
 女は首から肩、乳首に至るまで本気で噛んできた。ぼくは正直悪い気はしなかった。息ができなくなるのも、痛いのも、興奮した。女は時々首を絞めてきて、ぼくが意識を手放そうとすると手を緩める。いじめられている時は何も考えなくて済むのが一番良かった。
「ごめんなさい」
 完全に役になりきって、ぼくはより息を止められる方に言葉を弄し、女も満足そうに首を絞めた。そして女はぼくのちんぽを勃たせようとした。勃たないちんぽを。
 ぼくはそれを女性ホルモンのせいとは言わず、うつ病でEDなんだと説明した。女は道具を使う猿のようにちんぽを弄ったが、うまくいかず、最終的に生理のまんこを舐めさせた。匂いは酷かったが、吐き気がするほどではない。舐めようと思えば舐められる。自主的に舐めようとは思わないが。

 首元から肩までが全て痣で覆われるころ、朝になってぼくたちは別れた。よく考えれば美人でもなかったので連絡先を消した。鳥さん夫婦の元に遊びに行くと、心配された。その当時、ぼくに愛される方法と言ったら心配されることしかなかったし、これは心配されるのかと思ったら、自分でも不安になってきた。痣だらけにされて、首を絞められて、生理のまんこまで舐めたのだ。同意がなければレイプだ。なので、さらなる同意を得ようとレイプということにした。
 それを元カノに伝えると、彼女は悪への正義感で憤慨した。ぼくも弱っていた。演技がその本質を呼び込むように。それで付き合おうとぼくの方から言ったのだ。彼女は一回断わったことを理由に断ろうとしたが、結局付き合うことになった。彼女と地元をデートしたり、どっか遊びに行ったりした。彼女はぼくとセックスしたがらないのもよかった。ラブホに行って、二人でぼんやり抱きしめあった。それで充足できる。
 彼女はいろんなことをぼくに課した。女性ホルモンを打たないこと。他の女と喋らないこと。色々ほかにもあった気がするけど、忘れた。それでも楽しかった。

 実家にいたし、親とも毎日顔を合わせるわけで、気晴らしが彼女と合うペースじゃ足りなくなってくる。そこで、また出会い系で女と出会ってその人の家に転がり込んだ。その人も病気で、病気だから付け込みやすかった。そして女からしてみれば、ぼくも病気だから付け込みやすかったのだろう。女の部屋に転がり込んで二週間くらい過ごした。しかし、思ったよりも病状がひどい。夜中に叩き起こされることは何回もあった。
「眠ってるぼくがなにかしたか」
 女は泣いてて喋れない。両親に電話さえ始めた。やめてくれよ……そんな墓場か役所まで付き合うくらいの気持ちはないよ……。なぜか電話を変わらされる。名前から住所、電話番号などを聞かれる。親もよくあることだと言いつつ、ぼくの責任もあると言い始めた。最近は家族ぐるみの美人局もあるのかなと思いながら真摯に話を聞いて、女に電話を渡した。
 ホルモンを打ってないから、性欲も出始めてきたのが一番困った。セックスしようにも勃起が長続きしない。仕方なく、女に日に二回ほどフェラを頼み、さらに居ない時にオナニーをした。一緒に風呂に入った時に腹にペニスを押し付けて笑った。あれはとても良い思い出だ……。
 女が潔癖症なのか、ぼくが頭おかしかったのかはわからない。夜中に叩き起こされた。
「今度はなんだよ」
「もうあなたにはうんざり!」
「だから今度は何にうんざりしてるんだよ」
「ベッドに涎を垂らさないで!」
「そんなこと言われたって……」
「出てって! 今すぐ!」
 それからずっと譲歩してもらえるかどうか話をしたが、トイレでオナニーしないでと言われて諦めた。潔癖症の女に言われ、目の前でオナニーしないだけでも譲歩だったのだが。
 それからは何を話しても意味がなかった。女は女の親に泣きながら電話しているし、電話口の女の親はぼくが悪いから出てってくれと言った。荷物を詰め込んで、女の家を出る。

 

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閉鎖病棟

 閉鎖病棟について語ろうとすると、筆致が好奇心を抑えるので精一杯になる。モンド映画みたいな文章は書きたくない。しかし、閉鎖病棟にはそれを稼働させている仕組みしかない。止め方を忘れた機械みたいに。止まらないことを最善と思っているという仕組み。仕組みはモンド映画にしかならない。だからなるべく、そこにいた人について書く。
 閉鎖病棟についてのブログ記事もここに載せているから、そこに居た時期の感傷はそちらの方が克明だ。

 気付いたときにはなにもない部屋だった。クッションマットだけのベッド、タオルケット、穴が空いただけのトイレ(自殺防止のために水は抜かれている)、以上。カーテンもカーテンレールもない。まだ動物園の猿の小屋の方が物がある。叫ぶとナースがスピーカーから要件を聞く。こちらが伝える方法は叫ぶことだけだ。ナースコールなどない。出られるわけもない。鍵が外からかかっている。内にはドアノブもない。ネズミ捕りの罠のように、入った後は出られないようになっているのだ。そこが隔離室だと気づくほど頭が回ったのは二日後だった。それでも体を拘束されないぶんマシだった。風俗でオムツプレイをするのはいいが、病院でオムツは流石にきつい。物事にはそれに適した状況というものがある。
 それからまともになっていくと、シャワーが許可され、隔離室から一時間閉鎖病棟を散歩できるようになる。それが二時間、三時間……と増えていき、準隔離室に移される。準隔離室にはちゃんとしたトイレと鏡がある。ナースコールはない。その頃には鍵がかかるのは十六時間くらいに減っていたと思う。そこでさらに一週間後には四人部屋に移された。隣のベッドは夜中にお菓子を食べる五十の男で、ここに来るまでは野宿をしていたと言った。
 なるべく、露悪的に物事を書きたくない。フリークス的な側面はあるけれど、みんな、なかなか優しい人だった。
 落ち込むたびに自傷として妊娠をしては堕胎する女(ぼくの一つ上だった)。二十二浪のおじさん。浮気を繰り返し、失踪をしようとして国に入れられた女性(国が決めた措置入院というのは、自殺や他害の恐れがある人はもちろんだが、どちらかというと失踪のほうが入りやすいようである)。ぬいぐるみと話して、ここを出たら風俗嬢になるんだと息巻く女性。病棟の公衆電話でずっと悪口を言うために電話をかけていた男性。看護師を殴って病院をたらい回しになっていた男性。幻聴の話しかしない、いつも音楽を聴いているおじさん。大麻解放論者の共産党員。何を言っているのかわからないストーカーのおじいさん。いつも叫んでいるおばあさん。病院の定めた最長入院期間を余裕で超えているおじいさん。といった数多くのフリークス、とそれよりも多く真面目に治したい患者がいる。だから、あまり面白おかしく書くことに気が進まないのだった。フリークス達もいい人だ。そして、そう思うことはぼくがフリークスだからかもしれない。同情みたいに笑いものにできないのかもしれない。でもぼくは笑えるすべてが愛おしい。

 二十二浪のおじさんは、女性誌を片端からすべて書き写していた。女好きで、ナースによく話しかけてはあしらわれ、廊下にいた老婆を怒鳴りつけて怒られていた。ぼくが退院する前日、彼はぼくに病棟の自販機でコーヒーをおごってくれた。君は若いんだから、何かしたほうがいいよと言った。ここでは、みんながそう言った。ぼくが一番若かったし、彼らは自分の後悔をぼくに避けてほしいみたいだった。ありがとうございますと言った。もっと何か言いたかったけど、彼の声色はやはり変人のそれで、それが気になったし、悲しくて仕方なかった。若いんだから、と繰り返して、最後に彼は「君は若いんだから、セックスとかしたいでしょう。ぼくも君ならしたいよ」と言って真っ直ぐな目でぼくを見た。曖昧に笑った。ぼくが君なら、という意味なのか、君とならという意味なのか。

 失踪をしようとして入れられた女性は、クリスマスを気にしていた。子供とクリスマスを過ごしたいらしかった。措置入院だと国に退院の許可を貰うまで三週間から一ヶ月かかる。彼女はカレンダーを見ながらため息をついたり、ぼんやりと時が流れるようにしていた。他のフリークスよりはまともという理由で、ぼくとよく話していた。たぶん、子供とクリスマスを過ごせていたと思う。ぼくが十二月初頭に退院した後に、元風俗嬢と三人でカフェに行ったから、退院の目処は立っていたのだろう(措置入院だと外に出れないので、その時には医療保護入院か任意入院に切り替わっていることになる)。話すことはすべて夫か息子のことだった。夫や息子をセンスあるように見せることに尽力していた。微笑ましかった。ぼくは半ば本気で「親が子供を好いているというのは、社会のために作られた嘘だと思っていました」と言った。それほどまでにまともな親でなかったから。

 ぬいぐるみを抱いていた元風俗嬢は、様々な家庭の問題で悩んでいた。不妊で離婚したという。お金を貯めるためにまた風俗をやりたいと言っていた。風俗は楽しいと言っていた。仲が良く、ラインも交換したけれど、ぼくは一度も返すことなく終わってしまった。閉鎖病棟とはそういうものだ。寄り集まるしかない人々が寄り集まり、その必要がなくなればバラバラになる。

 看護師を殴った男性とは将棋を指した。ぼくが二度勝った。その次の日、急に廊下で気絶したふりをすると、看護師に引きずられてベッドに放り投げられた。それから夜になって、部屋から出た彼は看護師を殴った後、気絶したふりをした。多くの看護師が他の病棟からやってきて、羽交い締めにして、大きな注射を何本か打った。風の噂で強制退院になったと聞いた。

 幻聴の話しかしないおじさんとは、殺人事件の話をよくした。
「怖いですよね。何人も殺して」
「そうですねえ……」
「僕の知り合いにも白鳥っているから、幻聴が聞こえるんですよ。『お前は知っているんだろう。お前がやらせたんだ』って。そんなん知るかよって感じですよ」
「そうですねえ……」
 幻聴を聞かないために、彼はいつも音楽を聴いていた。時折ヘッドホンを外してロビーで音楽番組を見ていた。テレビではエレファントカシマシが絶叫していた。
「僕、エレカシの『俺たちの明日』、好きなんですよね。でもこの歌い方、この人おかしいですよね」
 彼は笑っていた。
「そうですねえ……」

 大麻解放論者の共産党員はぼくの腕を見るやいなや、
「すごいよね、君はリストカットの帝王だよ!」
と言った。それから、「君さ、名前なんだっけ? ……ああ、そうか、君、八階は必要だよ。五階じゃまだ足りない」と言った。飛び降り自殺の話だった。
 それから、いろんな話をした。真面目な話が多かったと思う。丁度その時選挙があって、投票する人は病院の中の投票所に行くのだが、それを見て、「君はこの歳にしてはちゃんとしてるよね」と言った。世間話もした。穏やかな人だった。「君はまだこんなところを見て、諦めちゃいけないよ」
 彼はたまに大麻の話をした。ぼくはその度に曖昧な笑みを受けて、隣にいる人にその話を受け継いでもらおうとした。隣の人は
「そうですね……。僕はコカインはやったことありますけど、大麻はないですね……」
と言った。ダウン・バイ・ローの頃のロベルト・ベニーニに似ていた。

 何を言っているのかわからないおじいさんは、ぼくによく話しかけてくれた。その八割は聞き取れなかったが、何回か話を聞いて、聞き取れたふりをして会話を続けた。初めに、ぼくの名字を聞いて、「どこに住んでいるのか」と聞いた。答えると、「そこじゃあ知り合いの親族じゃないな」と言った。
知り合いと同じ名字だったらしい。それから、ぼくに病名を聞き、「諦めないで、体操に参加したりいろいろしていれば治るから」と言った。
 そのおじいさんは退院の挨拶の時も同じことを言った。
「みなさん、諦めないで。前を向いていれば、良い方向へ行くものです。私も女にストーカーの容疑をかけられ、ここに入れられたものですが、諦めずに過ごし、ようやく出ることが出来ました。」
 みんなは苦笑した。飲み屋の姉ちゃんにちょっかいを出して捕まった人だということは後から知った。

 いつも叫んでいるおばあさんは、完全にボケていた。食道を悪くして、食べ物はいつも液状だった。いつも飯を食べた食べてない、人が私の悪口を言った言ってないで叫び続けていた。みんなから嫌われていた。看護師もほとんど無視をしていたし、叫ぶ度に他の患者から「うるせえよババア!」と、言葉が飛んだ。
 部屋の外に出るたびに看護師が「部屋に戻りたくないですか?」と聞いた。そうすると、おばあさんはだいたい「戻りたいような気がする」と言う。そうしてまた戻っていった。ほぼ毎日夫が来て、おばあさんを車椅子に乗せて散歩していた。その時だけ、おばあさんは静かになるのだった。
 ある日、おばあさんが被害妄想が酷くなって、人が出せる最大音量で叫び続けていた。そして時折「どこ?」と言った。「まだ?」とも言った。その次の日、おばあさんは強制退院させられていた。最後の日は夫を探していたのだろう。他の病院や、老人ホームではなく、家に帰れているならいいのだが。最後の日、こうも言っていた。「何もわからなくなる前に死にたい」その時だけは病棟にいた人々が静かに同意した。

 病棟の最長入院期間は三ヶ月なのに、半年以上いたおじいさんがいた。喋ってみるとまともだったから、よく話していた。ぼくにはおじいちゃんが一人しかいなかった(父方の祖父は何回も離婚と結婚を繰り返していて、孫の一人に時間を割く隙がなかったのだ)し、おじいちゃんは小学校の時に死んだから、それもあって懐かしくてずっと一緒にいた。おじいさんは昔の話をよくした。会社での話、娘の話、大学の話……全部武勇伝だったけれど、むかつかなかった。「お前の頃、俺は自動車を飛ぶように売ってたよ。お前もがんばりさえすればなあ」なんて言われても。なんでもよかったのだ。その人柄と雰囲気さえあれば。おじいさんと一緒にBSの水戸黄門を見たり、刑事ドラマの再放送を見た。おじいさんは月一で脳の検査を受けた。その結果をおじいさんは知らないようだった。
 ぼくは退院の前日、電話番号を書いた紙を渡した。「退院したら寿司を奢ってやる」とおじいさんは息巻いていた。でも、まだおじいさんの電話番号でぼくの携帯が震えたことはない。おじいさんは退院したいのに、転院の詳細が家族と医者の間で話されていた。それから一年がそろそろ経つ。おじいさんはぼくのことを忘れていると思う。

 閉鎖病棟で性的に好きな人もいた。女の人で、夫に浮気されて離婚したらしい。ぼくはその人と初めて会った時、外でたらふく市販薬を飲んでいたのでほとんど話すことが出来なかった。我ながら目が虚ろで、鼻を見ながら後頭部のことを考えているような表情しかできなかった。だから、何回も「部屋に戻った方がいいよ」と言われた。でも、顔を見ているのが好きだったから、部屋に戻らなかった。四角い眼鏡と切りそろえられた黒髪のボブをずっと見ていられた。話してみると、かわいい範囲で変な人。スヌープ・ドッグが好きで、ぼくが着ていたデヴィッド・ボウイのTシャツに反応した。洋画と洋楽が好きらしい。そしてぼくを見るなり「ネットから人と会うのはやめた方がいい」と言った。なぜネットで人と会っているのかがわかったのだろうか。ともかく、その的を射たアドバイスの次に彼女は「官能小説を研究してみたら? あと、ラップをやるといいよ」と言った。「まだ若いんだし」そのアドバイスは一つも実践できていないけれど、いつかやってみたいと思う。その後、メールアドレスを交換したけれど、返ってこなくなった。わざわざまた送ろうとも思わなかった。官能小説を読んだり、ラップを聴く度に、彼女の残り香を嗅いでる気分になる。

 話したことない人もいっぱい居るし、話したけど書いてない人もいる。でも、愛してる範囲ではこのくらいだ。この人たちをフリークスと呼ぶのは逃れられないかもしれない。でも、躾の悪い子供をかわいいと思うように、ぼくはその人たちの普通からのブレがかわいくて仕方ない。また会うことがないからというのもあるだろう。かわいいと思うなんて、自分は一般人のつもりだろうか? かわいいと思ってしまうことに、その時からの隔たりを感じる。でも、仕方ないよな。ぼくは長生きできるようになって、未来のために今を嫌って、過去を愛おしく思えるようになっていくんだ。