保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

ゲッティング・ベター

 自分がどうしていたのかがわからない。文章を書くのも、どうやっていたかがわからない。時折、すべて慣れてない物事に思えて、五分前に生まれたように右往左往する。それでも文章を書こうと思うのは何も素晴らしい理由がある訳ではなくて暇だからだ。

 どうやって、自分が生活を行なっていたかを思い出して、猿真似のように生きてる。一人でシラフで生活を行えるのは相当タフな時でないと無理だということを発見した。ぼくは調子を行ったり来たりするたびに新しい真理を発見する。そして古くなった真理を捨てる。そして調子が戻ってくると捨てた真理を「新しい!」と言って拾う。繰り返し。こうした記憶力のなさがこれ以上気が狂わないようにうまく働いている。もう少しぼくが賢かったら同じことの繰り返しに飽きて、もっと現状をぶち壊してる。新しい閉鎖病棟に入ってるかもしれない。

 この数日、とても楽しかった。しかし、ぼくは常に今と今以外の記憶を断絶させて(意図的なものじゃない)生きているから、まじでこの数日を生きていたのかと思うと自信がなくなってしまう。中島らも式の「生きていてよかったと思う夜があるから、死なずに生きていられる」という考えは当てはまる人と当てはまらない人がいる。幸せを貯金できる人が、不幸の時に幸せの記憶を使っていくことができる。けれど、幸せを貯金できない人間は不幸な時に何も使うことができない。不幸が不幸として来る。そういうところでぼくは不運にも馬鹿だ。

 

 なにも、こうしてクダを巻くために文章を書きたかったわけではない。そういえば最近、360くらいAmazonポイントが送られてきて、いよいよぼくも詐欺に引っかかるのかと思っていたら、このブログのアソシエイトだった。このブログで紹介したものを誰かが買ったら数パーセントがぼくの手元に入る仕組みだ。毎月毎月、Amazonアソシエイトから「今月の紹介料は0です」とメールが来るから、ムカついてアソシエイトを辞めたが、辞めた後になってポイントが生じたらしい。また、始めようかと思ったが、ぼくが人に何か感情を揺さぶることができるとは全く思えなくてやめた。それにぼくが何を紹介したらいいんだ。首を切っても死なないカッターナイフとゲロを吐いて翌日死んだように横たわることができる睡眠導入剤なら紹介できる。自分を使った実演販売だ。スナッフビデオの代わりにはなるかもしれない。そうでなくとも、読んだ本や聴いた音楽、見た映画をすべて羅列して、索引的に広告を出していくのは、すぐに根を上げてやめそうだし。少しは物を貰い慣れて、おねだりするくらいの度胸が欲しい。ぼくは勇気はないけど狂気はある(校医談)。

 そうだ。ぼくらは勇気はないけど狂気はある。ぼくらとはぼくと親友の彼だ。定期的に彼から死ぬと連絡が来る。最近も来た。その度にぼくは酒を飲んで、余計なことを考えなくて済むようにする。エゴの範疇で死なないで欲しいけれど、エゴの外では死なないで欲しいとは言えない。ぼくが人を救えるくらいの力があれば言えるけれど、力がないことで言葉はエゴになってしまう。叶える力があれば、願うことは馬鹿にされない。でも、叶える力がないのに願うことはあまりに悲しすぎる。彼とぼくは狂気はあるから死のうとするけれど、勇気がないから死にきれない。ぼくは彼に死なないで欲しいと願う。この願いは叶える力がないぶん、悲痛に聞こえる。ぼくの、「死ぬ才能がない人間は死にきれない」という仮説、それが正しくなければ、ぼくは自殺との戦いラウンド4のゴングを鳴らしてしまうだろう。勝てない相手とは戦わないという理性で今を生き延びてるのだ。その仮説が間違ってないと思う為にも死なないで欲しいと願う。これもやはりエゴの範疇だ。死ねない人々が死にたいと願う時に、それが悲痛に聞こえるのは叶える力がないからだ。その周りで助けようと願うのが悲痛に聞こえるのは叶える力がないからだ。死ぬ方向では叶わない願いを悲痛に響かせたいが、助ける方向では悲痛に響かないように叶えていきたい。

 

 なんだか調子が悪く、悪態をつくように文章を書いてしまう。人が読みたいのはなんなのかが今でもわからない。赤裸々な恥部か、共感できる言葉か、ただ続く生活か……。ぼくが書けるのは恥部と生活と多大なる修飾だ。幸せになりたいし、幸せを言葉にしたいけれど、今は目を白黒させて周りを見渡すことで精一杯だ。それでも世界はすべて良くなっていると思う。いろいろと視点を変えて同じ最悪を見つめ直してる。だからこれ以上悪くなりようがない。そうやって、これ以上悪くなりようがないという形でだけより良くなっていく。