保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

 人と久しぶりに会うからと、鼻毛を無にして(ぼくのできる最大限の身だしなみ)外に出たら風邪を引いた。ここ最近、人と会ってうまくいっていたから人と会うフットワークが軽くなっていたけれど、人と会ってうまくいかないと消え入りたくなる。人と会った後に言わなくてよかったなと思う言葉が頭の中をぐるぐるして、答えのない反省会して、ただただ自分の事を糾弾している。簡単に自分が悪いという答えに辿り着いては、自分を嫌う一番簡単な解決法に頼っている。結局は自分を嫌っても、なんの解決にもならないし、最終的に甘い自分が自分を許してしまうからなんの意味もない。今年の上半期は人に会いたくなって、人に会っては落ち込んで、自分に欠けているものが見えて死にたくなることを繰り返していたのを思い出した。

 病気のせいか、自分のせいか、まともな日が百あってもそれを台無しにする一日があって、砂場で城を作っていても自分に蹴っ飛ばされて砂に戻ってしまう。親しい人から順に遠ざかる。優しい人から順にぼくの悪いところを見つけてしまう。自分の悪いところを病気だとか理解だとかそんな言葉でごまかしたいけれど、そうしたらぼくの悪いところを人に寄りかからせてるだけになる。結局、うまく人に接することができないぼくが悪いのだから、さっさとぼくが人との接し方だったり病気なりを治していかないといけない。うまくいかない。こうなる度に自分が誰にも寄りかからないように強くなれたらと思う。それかもう寄りかかれなくて地面にぶっ倒れてそのまま消えていけたらと思う。

 

 鼻水が酷いから風邪薬を買いに行ったら薬剤師がすっ飛んできて「咳止めは確認が必要です」と言ってきた(咳止めはオーバードーズによく使われるため)。完全に薬剤師に咳止めの奴として顔を覚えられている。咳は出ていないからと普通の風邪薬を買っていたので、薬剤師は「あっ違いましたね」みたいな感じで誤魔化した。もう何年ぼくは病人をやっているんだろう。何人がぼくを病人だとわかっているのだろう。病気で逃げ続けてきたけれど、もう病気で逃げられないところまで来ているのだろうか。水面に映る自分に吠える犬のような気分だ。水面に映っているのが自分だと気づいたら自分のことが嫌いになってしまうから、わかってるのにわかってないふりをしてなんとか死なないでやっている。けれど、自分を省みないぶん、他の人に疎まれていく。

 こうやって鬱とか憂鬱を書いている自分のことだって嫌いだ。人はそんなところをおくびにも出さず生きているのに、ぼくはいったい何をやっているんだろうと思う。自分が落ち込んだり疲れたりすることで、人は落ち込んだり不快に思ってしまうときもあるから、なにも悟られないくらいの強さが欲しい。みんな隠れて泣いたり手首を切ったりしているんだろう。人に自分のことで悩まないで済むように。ぼくもいい加減赤裸々以外の社交を身に付けるべきなんだ。