保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

一人で飛べも浮かべもしない日に

 大体、一日に二つも記事を書く時は気分の変調か、言い訳か、両方かのどれになる。この記事は言い訳のほうだろうと思う。このブログを読んでくださる人たちが面識のない人ばかりであった時には、好き勝手に書き散らし、ぶっ倒れたふりの後に立ち上がるかのような悪趣味なユーモアや自虐を書き連ねてはマスを掻き続けていた。けれど、最近は友人知人そのまた知人と、知人の尽力か酒の尽力でぼくの顔を知っている人間が読むことが多く、言葉を選び、なるべく人々に誠実である言葉を選ぼうとまたスマートフォンをタップしている。不安なのは自分が必要以上に深刻に見られてしまうことだ。実のところぼくが必要以上に深刻かどうかはさておき、ぼくは必要以上に深刻ではないというのが自己認識だ。結局は思っているよりかは元気です、と、それだけで済むことを書いて、それから飛び出してしまったことも書く。

 一冊本を読んでは休憩のようにブログを書く。ずっと美味しいものを食べれるように食っては吐き続けたという古代ローマ時代の貴族かのような真似をしている。訂正に訂正を重ねるためにこの記事を書いている。今は(不安定ではない程度には)元気です。人の機嫌は移り変わるものというのが躁うつ病のぼくの認識だが、健康な人々にとってその認識がどこまで浸透しているのかわからない。けれど、文字として中途に残した一日の結果が、ブログを更新しなければ数日トップに載るのはあまりにも恥ずかしいので今に至る。ぼくの記事は基本、生と死を行ったり来たりしつつ、羨望で死を眺めるという、わかりやすく言えば「日常」でしかないことを書いている。常に浮いているかのようなぼくの日常は、一人で浮いていると勘違いできていれば問題はないが、結果高い高いをされる赤子のように色んな人に支えられての浮遊だ。本当に一人で浮きたければ縄と吊るす場所が必要で、本当に一人で飛びたい場合はビルの屋上が必要だ。つまり、生きている限り、一人で飛ぶことも浮かぶこともできない。つまり、先程の日常の定義、生と死の往復と死への羨望を日常として繰り返している以上、人は人と関わっていると言える。ツイッターを眺めれば、たまに話したくらいのフォロワーが死にます風のことを書いていた。フォロワーが死んだのか死んでないのかはさておき、個人的にその人とは宙ぶらりん仲間であるように思えていたので勝手に解釈すると、宙ぶらりんの苦悩、人の手を借りて浮遊しているという事実に悩んでいたのではないかと思う。飛んだのか、浮かんだのか、薬を沢山飲んで高いところへ行ったのか(ハイになると言うでしょう?)、どっかの海で浮かんでいるのか、はたまた飛び込んでいるのか。どのみち足のない幽霊になる。本当の宙ぶらりんになれたのかは定かではないけれど、いつものように感傷や野次馬根性がぼくの胸を去来する度にそれらしい事を考えて終わりにする。ぼくの詭弁の哲学。