保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

日常とはもう書いた気がするけれど

 朝起きて、だらだらと寝転がっている。昼間はもそもそと服を着て近場の公園にまで行く。神社に手を合わせたら、そのまま帰ってこたつに入る。そんな判で押したような生活ができていることに安心している。神社のある公園にはもともと毎晩通っていたのだが、自分と似た幽霊の目撃情報を見て、なんだかうすら寒くなってやめた。ようやく毎晩神社の前で歌っていると迷惑になるということに思い当たり、自分によく似た幽霊にとりつかれているのではと思うと夜にわざわざ行く気もなくなった。もうひとつ可能性があるとすると、自分が幽霊だと思われているということだが、半分棺桶に足を突っ込んでいる自分と幽霊が重なって、他人の幽霊の目撃情報がなぜか自嘲的に響いた。人間という字は人の間と書くなんて国語の授業でもないのに思う。人だけでは人間になれない。マンモスを狩る時代から人間は社会を作り上げて生きていた。幽霊部員のように、人の営みから半分出つつ、同時に人の営みにひっかかってなんとか生き延びている。自分によく似た幽霊。幽霊もそんな立ち位置を考えると、自分によく似ている。人の営みから離れて、しかし人が認知しないと存在しているか怪しいというような。とにかく、自分に似た幽霊のおかげか、信仰心とも言えずシンパシーにさえ近いような気持ちで近場の神社に手を合わせるようになった。神がいるのなら、何がシンパシーだと、幽霊によく似た青年を見て思うだろう。神社に幽霊騒ぎを起こしやがってと思っているかもしれないが。

 散歩中、ドラッグストアが目に入ると、脅威に感じて早足になる。昨日は救急搬送された病院に意図せず出くわして驚いた。外見も知らない場所の中に入っていた記憶が幻覚と混じり会って思い出される。そのどろりとした感覚に吐きそうになりながら走って逃げ出した。風呂に入っているとなぜか病院のお粥の匂いがした気がして、もう一度嗅いでいると匂いが消えた。日常が綱渡りに思える。毎晩、今日一日自分に殺されずに済んだと思う。毎朝、今日だけは死なないと意気込む。日常がやけに変わって見える。日常とは主題と変奏の繰り返しなのかもしれない。「根本的な新しさはなく、大胆なヴァリエーションに過ぎない」半径五キロメートルの暮らしがそれでもそれなりの新しさを持って眼前に広がっている。ここ二年は十月と十二月初旬を逃している。季節という大胆なヴァリエーションの繰り返しに目が眩んでまた日常へ没頭していく。