反日常系

日常派

あけましておめでとうございます

 もう人々は年明けも終わり、明日から仕事を始めるのでしょうか。もう始まっているかもしれない。とりあえず、あけましておめでとうございます。誰もが何がめでたいのかわからないまま口にしている言葉を、何がめでたいのかわからないことを自覚しながらタイトルにつける。安定している人にとっては何事もないことはめでたいのかもしれない。不安定な人にとっては何もないことは不安をかきたてる要素になりえる。まあ、そんな意味があって不安になったわけでもなく、不安になると時間を潰して言葉で不安を埋める為にこうしてブログを書いている。書き始めてから、自分の足跡が何か模様に見えるようにそれとなく後付けの理由が見えてきて、それを不安の理由に押し付けた。

 年末に引いた風邪を今の今までひきずっている。咳をしていると余計病人じみてきて、痰を吐いては鼻をかみ、体温を測ってはさほど重くもない症状だということがわかる。何事もない日々が後々理由付けされていけばいいけれど、その見通しはなかなかつきそうにない。ゆるやかに落ちていく紙飛行機みたいに、上がる機能がついていない。受験の時もこんな感じだった。やらなきゃいけないことから目を離せない癖に、蛇に睨まれたように動けない。用事があれば多少は気が楽になるけれど、用事を器用にこなせる能力もない。水曜日は十一時に裁判所。ちゃんと行ければいい。荷物も忘れない。メイクも出来たら良い。ただそれだけがとても難しい。人々はより良い方向へ行くために、だまし絵みたいにうろうろしてる。ぼくはそれを一番下で見上げてる気分。最近、いろんな友達と話すのは抗不安薬心療内科のこと。みんな幸せであって欲しいと何より本気で願うけれども、自分が思うみんなの中にすら自分が入っていないことに諦めて、ため息みたいな苦笑が出る。

 年末年始に起こったことを語ろうにも、日常から離れたことはなかなか言葉にしにくい。祖母がかなりボケてきていた。ボケた祖母を見る度に、もう悲しくなるから祖母を見たくない気持ちと、もう少し先にはぼくのことさえ忘れるだろうからと、その前に会っておきたい気持ちになる。精神病院の認知症患者を思い出してげんなりしていると、祖母は「こんな調子じゃ閉鎖病棟入れられちゃうわね」と笑った。祖母はぼくが閉鎖病棟に入っていたことを知らない。無垢な嘲笑が、それ故にきつかった。田舎を見渡せば、子供の頃は何も思わなかった当たり前のことが、大人になるにつれて異常だと気づく。大人たちがやけに生活じみてせせこましく感じるのは、ぼくに社会性がないからか。都会病のような装飾性を得たからか。何にしろ昔の異常に気づくのは、サーカス団がキチガイの集まりだったと気づくみたいだ。そのうち家の壁が倒れて、新宿で家族と飯を食べているのかもしれない。そうならないことを願うばかりだが。

 一年半前に切った首の傷が痒く、引っこ抜くようにかさぶたが取れる。掻くたびにゴリゴリとギロのような音がする。カウンセラーに「カッターは捨てました」と適当を言ったつもりが、本当に捨てたみたいでカッターがない。さして切る予定もないが、紙を切りたかった。さしたる行動原則もないのが一番悲しい。自分の体に残った跡が後にそれなりの絵に見えていけばいいと思う。