反日常系

日常派

真夜中の心配事

 最近よく眠れていなかったから、早く眠れて嬉しかったけれど、起きてみれば午前三時で嫌になった。朝起きてまず最初にママ(擬似家族)のツイッターを見た。LINEが帰ってこない。生きているかもわからない。生存確認が不特定多数の人々に向けられていることに安心する。不特定多数以下のぼくなのかと、くだらないことで一喜しないくせにすぐに一憂はする。くだらないことで悩むのにも理由はあるのだ。

 

 ママはここ二週間、躁になったみたい。パパと住んでる部屋も飛び出して、二週間、家出と言えばかわいらしく、ネカフェ難民と言えば悲しいような、ホームレスをしてる。ぼくは心配と自分が安心したいちゃちな利己心でママとずっとラインしていた。パパから、凪ちゃん会話してあげてねと言われ、それが利己心を覆い隠す大義名分になった。いろんなことがあって、あまりアドバイスはしないけれど、不安でアドバイスをしてしまった。ただ話を聞くだけがぼくという存在の利点だったのかもしれない。人の為になれるなんて、そんな気持ちは随分前に捨てたと思ってたのにな。それから既読も返事も来ない。自分が足を踏み出した時は余計不安になる、それが踏み外した一歩かどうかは、落ちてから初めて気付く。「些細な振る舞いから勝手に自分の潮時を読み取り、記憶に居られなくなって切られる前に逃げていく」性質が、ぼくから逃げることなくくっつき回っている。愛着障害とでも言うのだろうか。わからない。依存や執着なのか。依存に憧れる人々には見えない些細な苦悩で、心臓を一突きされた気分。瑣末がやけに大きく見えて、人生の一大事として死にかけそうな、いつもの認知の歪み。喜劇としての人生は、主観では撮れない。

 もし、このままママが死んでしまったら。もし、もう喋ることがなかったら、と考えたって仕方のない思考を堂々巡りして、その度に自分の中の傷が深まっていく気がする。名前だって、ママにつけてもらったのだ。ひとりよがりな悪い予感が当たってしまったら、そしてまだぼくが生きようと思っているのなら(もちろんこの表現は悪趣味にすぎますが)、しばらくは名前を呼ばれる度に傷つくだろう。それにも慣れた頃、ぼくは自分の名前をどう捉えているのだろう。もう変えた名前が、傷跡が残った後にどんな傷だったのかを忘れたみたいに以前とは色が違うだけの体を引きずり歩くのだろうか。

 不安だし、ママにぼくの部屋に来てよって言ってるけれど、ひとりが心地いいのか、ぼくといると気を使うのか、人に助けを求めるのが苦手なのか、来る気配はしない。ぼくだって、不安になりたくないという利己的にすぎる理由だからなんとも言えない。助けたいなんて利己的な気持ちと、嫌われたくないなんて利己的な

気持ちに揺られて、自分が嫌いになった。なるべく死なないように生きます。今日だけは生きる今日を繰り返していく。助けたいのは、助かりたいからなのかわからない。ただただ不安で自分を罰したくなる。今日だけは罰しない。今日だけは生きるに値しないすべてを生きなければならない。