反日常系

日常派

ピンボールたち

 あんまり上手くいかない。書くことは控えるけれど、周りの動きに一喜一憂していると、自分はピンボールみたいに終わりを先延ばししているだけなんじゃないかと思える。なるべく落ちる以外のゲームオーバーを、点数以外のハッピーエンドを求めて、ぶつかっては弾かれて、遡上したり流れに負けてしまったり。

 パパ(わかりにくいですが、ぼくがパパ、ママと表記するのは擬似家族の人々です。父親、母親と表記するのは実家の人々です)とLINEで話した。最近はよく話す。生活のこととか、音楽のこと。最近の音楽を教えたりして、得意げに覚えたことをすぐに話す子供になる。パパといろんなことを話して、話の流れで、ぼくのよく行くロックバーに行こうと言う話になった。ぼくは好きな人々が別の好きな人々と仲がいいと嬉しいので、いつか一緒に行こうと言って、その次の日もまた確認した。パパに「バーには音楽に詳しいヒロさんって人がいるんだ」と言った。「ルインズとか知ってるんだよ」と、友達を誇る子供のように言ったら、興味を持ってくれて嬉しい。独りで変な音楽ばかり聴いてた中高時代のおかげで、好きな人々たちを好きになれた。パパもママも。森ともそうだ。

 そういえば、また出会い系を始めた。人と話したかったのかわからない。とりあえず性別を女性にして(心が痛む)、顔写真はぼくのものにして登録する。とりあえず、裏アカというか、創作日記的なものを出会い系のタイムラインにぽつぽつと投下する。出会い系をなんだと思ってるのだという使い方だが、掃き溜めだからこそ自分の本当を吐けるということもある。そうしていると、男が一人話しかけてきて、その人はノイズとメタルが好きだと言う。特にMASONNAMASONNA好きの人間と会ったことがない。やばいかやばくないかどっちにしろ、センスは信用に足る人間だと思った。話していると、会う感じの話になり、参ったなあ(ぼくは見た目以外はどうしようもなく男なので)と思いながら「実は……」とカミングアウトした。そうすると、笑いながら「いいよいいよ」と言われ、結局LINEを交換した。おそらく暇が出来次第会う感じだ。またまた音楽で繋がってる。音楽が世界を救うなんて世迷いごとは、そういうところから出てくるんだと実感した。言ってしまいそうだ。人が自分の損得ではなく、自分の好きで繋がれる感じ。好き嫌いや快・不快という低次の事だからこそ、争いにならない。真面目に話せば馬鹿らしくなるようなことで、人の感性を信用してしまう。素晴らしいことだ。

 ぼくの仲いい人みんなが集まって、互いのセンスの良さを認めながら、大きな音では流せない音楽を大きな音で流したいと思う。そんな幸せな夢みたいなことを思う。人生のエンディングは最期のシーンだけでは決まらないから、そうやって幸せなシーンを集めて行けたらいいのになあ。そう思うと、みんなが幸せに暮らすことをまず祈ってしまう。際どいところに行ったボールが、ゲームオーバーにならないように。人生の質はピンボールではないけど、生死はどうしようもなくピンボールみたいだ。