反日常系

日常派

二番目のワルツ

 ここ数日は狂ったように楽器を弾いている。すべてから逃避したくなった。死ぬ気はまだしない。

 疑似家族のママに怒られた。要約すればぼくの生活が道理的に気にくわないということだった。ママは躁鬱だから、その病気のせいというのもあるだろうけれど(あるといいけれど)、怒っている内容は至極真っ当だから何も言えなかった。ただ、簡単に嫌悪を表明されて、それが正しいから受け止めるだけしかできない。いっそのこと嫌いになれたらと思うけれど、ぼくは躁鬱ゆえに未来に対して一つのことを決意することができない。ママも躁鬱ゆえに、嫌悪を翻してくれればと思うけれど、そういうことを文字にするのは本当に卑怯で情けなくて死にたくなる。

 簡単に否定されて、ぼくも簡単に嫌になって、ツイッターを白紙に戻した。ブログだけは残したのは褒められたいという形の表れか。顛末だけを褒められる人生。怒られるのも嫌われるのも慣れてるし、簡単に自分が悪いという結論に達する(自分が悪いから)。けれど、周りの「ぼくを傷つけない人」が「ぼくを傷つけた人」になって、それがもう変わりようのないことは、どんなに自分が悪くても悲しい。

 起きていると怒りや悲しみやどうしようもなさにやられてしまうので、久しぶりに薬(市販薬ですが)をやりたくなった。でも、また閉鎖病棟に戻るのかとか、幻覚を見るのかとか考えるとげんなりした。それ以上に怖くて仕方なかった。自分の感覚を総動員して幻覚の記憶を思い出してなんとかやりすごした。自分の入院日記を読んだ。

 

 死んでしまいたいだとかそんな考えじゃなくて、何も考えたくないと思った。ずーっとギターやベースを弾いていた。曲を作った。そういう逃避の生活がぼくを嫌わせたというのに。

 入院中連絡を取り合った後輩と音を合わせたいと思った。まず、友人の森に聴かせた。森ならちんこも見たし風呂も入った仲なので、あらかたのことは恥ずかしくない。高評価だったが、それでも恥ずかしかったし、森と一緒にバンドをやりたいと言っていたこともあってバンドに入れた。ずっと逃避だ。こんなに逃避に本気になったことはない。ギターを弾き、ベースを弾き、音楽理論の本を読み、作曲し、録音し、そうして我に返るすぐに音楽を聴く。エリオットスミスやスパークルホースニルヴァーナなど、死んだ人間の歌ばかり聴いている。

 まだ様々な改名手続きがあって、名前を書いていると孤児になったみたいに思う。エリオットスミスのwaltz#2を聴く。孤児でもいいから、なるべくぼくを傷つける人が(いろんな理由でぼくが悪くても)ぼくをそっとしておいて欲しい。ぼくは間違いを犯さないように部屋でじっとしてる。