反日常系

日常派

入院中に書いた小説

ボクシングなんかやめろ

 わたしの知り合いの女の子の話をする。週五か六でジムに通い、週二、三でボクシングを習った。たぶんだが、彼女は週に日が十日はあると勘違いしていたのだろう。よくわたしに腕相撲を申し込み、わたしは簡単にねじ伏せたものだが、それでも何回かこなすうちきかなりいい勝負になってきていた。
 彼女は車も何も持っていなかった。生活がとても下手だった。部屋さえそれが維持されているとは全く言えない状態だったので、わたしは住み込みで彼女の世話をしてやった。わたしと出会う前、彼女は実家に住んだり、親の金でどっかに部屋を借りたりを繰り返していた。わたしと知り合ってからは、その繰り返しにも飽きたのか、彼女は実家に住んでいた。それも都心でも大きい方の家に。一階は両親の車と祖父の車の駐車場、二階には大きなキッチンと風呂、三階にはそれぞれの部屋、四階には物置になっている部屋があった。両親は寛大で、彼女の欲しいものはなんでも買ってやっていたし、わたし一人を住まわせるのだって寛大でなければできないものだ。わたしのことを風変わりな恋人だと思っていたらしい。それも、寛大さがなし得たものだろう。
 彼女は世界のすべてが気に入らないようだった。わたしからすれば満足だろうと思うすべてに不満を持っていた。美人で胸も悪くない、両親はやさしい。金もある。

 彼女は親の車に乗りたがらなかったので、わたしが運転する自転車によく乗った。天候に関係なく、わたしは自転車を漕いでやり、彼女は時折立ち上がって遠くを見る。そしてブレーキをかける。彼女が慌ててわたしを掴む。
 彼女は大学にも在籍していたらしいが、わたしは詳しいことは知らない。そもそも一回でもバッグに教科書を詰めているところを見たことがない。わたしの中で彼女はずっと半袖からいいウインナーのような脚と水泳選手のような腕を伸ばしている少女だった。それか服の中に胸を隠している少女だった。彼女は恋人ではなかったし、わたしは女に趣味がある訳でもない。それが彼女には珍しかったのだろう。
 いつものように、ジムに行く時間の少し前に叩き起こされ自転車を漕いだ。
「そんなに強くなってどうするんだよ」
「考えてない」
「こんなんじゃ、俺の脚の方が太くなってたまらねえや」
 彼女は笑った。
「試合とかやってんの?」
「ボクシングの方?」
「ボクシングの方。あれ、今日はジムの方だよな。ボクシングじゃない方の」
「そうそう、今日はボクシングじゃない方。まだ試合はやってない。やったとしても、防具つけて、キャットファイトみたいにして終わり。そんなのって試合じゃないだろ?」
「まあ、試合って言えば試合なんじゃないの。ルールがあって、反則があって、安全があるっていう」
「私が望んでるのはそんなものじゃない。もっと、骨が打ち鳴らされるようなそういうものなんだよ」
「喧嘩は習えないもんな」
「そうなんだよな」
「着いたぞ。降りろ」
 大人の二人乗りは目立つ。何回も警察に注意されていた。だからジムに近づく大通りには彼女を降ろし、そこで分かれることにしていた。
「帰りもよろしく」
「はいよ」
「いつも何してんの?」
「南口の古本屋行って、マックで読んでる」
「暇そうだな」
「脚を休めてんだよ」
 二人して笑った。「それじゃ」

 それから半年して、彼女は死んだ。それから後を追うように彼女の父親が死んだ。どちらも事故死と言って良かった。彼女は飲みすぎて、彼女の父親は飲まなすぎて死んだ。
 ボクシングなんかやってたのが悪かったのだ。自分は強いと思い込みすぎていた。彼女はその日、大学で同じサークルかなんかだった男を殺した。その前にカッとなって意を決するために大量の酒を入れたらしい。彼女は千鳥足で男の部屋に行って、どちらもボコボコになるまで戦い、最終的に酒瓶で殴った方が勝った。つまり彼女の勝利。その後、落ち着こうとしたのか、悔しかったのか、さらに酒をあおったのがよくなかった。そんなに飲まなくても……というような量を飲んだ。酒蒸しにでもなろうという量を。急性アルコール中毒で、彼の部屋で靴を履こうとして死んでいたという。
 葬式には出なかった。礼服がなかったし、ほとんど毎日顔を合わしていた人間の悲痛な顔を見るのは辛いことだ。出ない理由はあまりあるショックで何も考えがつかないということにした。
 それから彼女の父親が事故を起こして死んだ。不眠が死神のように彼につきまとっていて、目の下のクマが日に日に色濃くなった。元々は頑強な男だったのだが、最後に見る頃には小便の的になる街路樹みたいだった。
「少しは飲んだ方がいいですよ。その方が眠れる」
「いや、いいんだ……もう少し考えていたいから」
 そして、最終的に居眠り運転で三人の男を巻き添えにあの世へ行ってしまった。もうそれ以降はその家族について知っていることはない。わたしは実家に帰ったからだ。今でも酒瓶を見て思い出すことがあるが、それ以上に車を見ると思い出す。わたしは未だに自転車に乗っている。