反日常系

日常派

入院したい

 精神科に入院すると入院オタクみたいな人が一人はいて、そういう人間にはなるまいと強く思うのだが、最近は辛い時に入院したいと思っている自分に気づかざるを得ない。最近は辛いことばかりで、外に辛いことがなければ絶えず自分が自分の粗を探して辛くなるだけ。世間はそれを想定する人間の妄想だから、世間に扮装した自分にひどく言われている。病院で「外に出ると息が詰まるんです。喉が絞められたように絞られ、鼻で息をすることが困難になり、その後に口での息が浅くなります」というと、それはストレス性のヒステリー球と呼ばれるもので、ストレスを感じると喉が締まることがあると言う。外に出るだけで過大なストレスが溜まっているのか。いよいよ、生活が困難になってきた。それも、外因ではなく内因なのだから、滑稽としか言いようがない。

 ここ最近夜になると、市販薬か入院のことしか考えていない。朝になるとすべての気分がリセットされるのだが、それすら自分が白痴に見える一因になり、また、明日の自分にさえ軽んじられるのなら、自傷と言う形で痕に残して態度を示していたくなる。なるべく死にたくない。なるべく病院から出られないような生活はしたくない。そう考えると、任意という形で入院した方が良いのではないかと思えてくる。入院という形でないと生活ができない。自分が生活を行使せず、人に任せていたい。実家は繭にはなりえない。自分の部屋も繭になりえない。生活力の欠如が生活自体を外敵にしてしまう。

 

 最近、ポール・オースターの『空腹の芸術』というエッセイを読んだ。クヌット・ハムスンの『飢え』を題材にしていて、その作品では、物書きを目指した少年が自分で選んだ断食のために文章を書くことができないという、自由意思での断食と芸術がテーマとなっている。オースターはそこから芸術論を繰り広げるのだが、ぼくが心打たれたのは、主人公が苦しむのは苦しむことを選んだからである(ゆえに同情はできない)と言ったこと。もうひとつは、断食を(達成すれば死んで断食が終わってしまい、達成できなくても断食が終わってしまうため)解決されない矛盾のある行為、つまりは絶望であると言い、自己破壊的な情熱が自分を破壊できないがゆえにさらに絶望するという部分だった。飢えを自傷に変えれば今でもよく見かけることだ。同情さえされず、絶望が自分を食らっては食い残し、一人で自分を食い尽くせないことに不満ばかり立てている。生活を用いた自傷を繰り返している。