反日常系

日常派

疲弊

 疲弊している。特に何かしたわけではないのだが、特に何かしたわけではないということが自己嫌悪になって襲ってくる。体が重く、のろまでとんまな動きで右から左、左から右へと動き、外に出れば雨が降っていて引き返す。

 何もしていないのに疲れる。ぼくはこれを時代的なムードが疲弊なのだと、知識量の少なさからあえて断言してしまおうと思う。よくいわれていることだが、ミレニアムを過ぎてから、911が起きてから、すべてのムードがどっちらけになってしまった。向かうべきところはないのに、向かえと行進させられる。徒労のムード。物心ついた頃、911が起きた頃に六歳だったぼくが世代間のギャップについて語るのはいささかを超えて滑稽だが、今二十代のムードは何もしたくないという殻にこもるムードだと思う。目的がある世代ではないのだ、ちょうど、時間を潰すために生まれて、生まれたことで時間も生まれた。ぼくらよりもう少し下の世代もそうかもしれない。『終わりなき日常』が本当にきつい。

 『終わりなき日常』は入院生活のような、シェルター生活のような冷たさを持ってぼくらのすぐそばにいる。

 サミュエル・ベケットの『勝負の終わり』を思い出す。物がどんどんなくなっていく世界の終末で、最終的に何もなくなって終わる。チェスの終盤戦になぞらえてもいいだろう。そういう、ジリ貧のムード。なくなることはあるけれど、増えることはない。手に入らなかったものが手に入れたいもの。ほとほと疲れた。何もしていないのに。いや、何かしているのに、それを認めることができない。ただただストイックといえば聞こえのいい、自己肯定感の低さが一日を貶めて、そのせいでただただ落ち込んで疲労していく。