反日常系

日常派

今でも幸せ

 ここ最近は人と会うことが多く、その数々をちゃんと描写すると楽しいや幸せという形容詞が似合うのではないかと思われてきます。しかし、躁鬱や解離を理由に社会からドロップアウトしている身からすると、その形容詞が付くことによって他人から攻撃されるのではないかと身ををすくめてしまう。鬱についての本を読んでいると、「鬱の療養は部屋でじっとしていることではなく、楽しいことを楽しいと感じてすることなのだが、そこの勘違いで前者の療養をしていないと批難されることが多い」というようなことが書いてあって心から同意した。どうせこんなブログ、ぼくのことを好きな人とぼくのことが嫌いな人くらいしか読んでいないのだから好き勝手書き散らせば良いのだろうけれど。

 金曜日は人付き合いがうまくいかなくて、さっさと死にたい気分になっていたら森が家に来て鬱に良い食材を置いてギターを弾いてくれました。それからバーに行くと、金曜日ということもあってか、ハッピーな雰囲気にあてられてしまい、ぼくらは根暗なんだと再確認しながらすごすごと終電を前に帰ったのでした。

 土曜日の記憶はありません。

 日曜日はぼくの曲をなんとか形にしたい一心で友人(ドラマー)とスタジオに入り、試行錯誤してようやく、「ぼくはドラムがようわからん」という結論に達しました。

「タムで刻んでみるとかは?」

「すごいださい」

「もっともたった感じに演奏できる? リンゴスターみたいに」

「うーん、どうすればいいかわからないな

「すみません……」

 月曜日は病院の友達と遊び、喫茶店でぼんやりとおしゃべりをしました。他愛もない話(病人の他愛もない話とは人生や生活上の不安になるのですけれど)をして、そろそろ頃合いかと外に出ると大雨が降っていました。ぼくは別の友人と食事の約束があるからとそこで別れてしまったのですが、雨に降られずに帰れたのかが気がかりになりました。気がかりにすることで罪悪感を少しでも少なくしようと思うけれど、考えれば気がかりになって脳みそにこびりつきます。また遊べたらいいなと思います。晴れた日に。

 それから羽川さんと会い、食事をして、他愛もない話(どうしてぼくの他愛もない話は生き死にが絡んでしまうのでしょうね)で笑い、うまくいかないことに対して平行線上を巡り、そのくせに頭の回路がこんがらがり、二十一日(疑似家族のパパと遊ぶ約束があるのです)に期待をして、昔の不幸を吟味して、喋り疲れて解散をしました。

 

 楽しい日々にも終わりが来るのが当たり前です。夜は無邪気な子供のようにぼくの顔をしかめさせます。暖かい布団に潜ると、途端に涙が出てきます。布団に入ると、自分の幼少期が思い出されるのです。白黒思考のせいで「幸せな幼少期を送っていない以上、百パーセントの幸せは得られない。この夜の辛さは死ぬまで続くだろう。ならば生きていても意味がない」と思い、いっそのことアルコールや市販薬で気分を上げようと思うのですが、こういうときに気分をあげると自殺衝動だけが上がり、閉鎖病棟に行くことをぼくは経験でようやく学びました。最近、森には「たなかは一人で酒を飲んじゃダメ」と断言されました。そもそも素面の自分の気分も信用できない病気ですから、酔った時など余計信じることができません。楽しい日々。楽しいのだけれど、それをマイナスにする夜が潜り込む。いくらプラスを重ねてももうマイナスはひっくり返せないのではないか。簡単な例えに逃げるなら、底の開いたコップに水を注ぐようなものではないかと思ってしまうのです。時折言いようがなく寂しくなり、涙を流して眠る時があります。ぼくが三十になった時……。いや、それでは遅いか。二十五……。ともかく数年後、ぼくが同じ理由で幸せや楽しさの目の前でふてくされた顔をしていたならば、もういっそのこと刺し殺してやりたいと思う。今だって幸せなはずなのだ。それが昔の出来事に左右されるなんて馬鹿らしい。馬鹿らしいとわかっているのにな。楽しい日々に失礼だ。