反日常系

日常派

いつでも消えれる女の子

 朝起きて、食パンを二枚とバナナを一本流し込む。そしたら長い長い無が始まる。これは昨日よりはまだ元気だから書けている文章。昨日は夜、逃げ込むようにスーパーへ駆け込み、ストロングではキツくなってきた体に流し込むアルコールを買った。助けてくれとすがるようにほろよいを飲む姿は悲劇的ですらなく喜劇だが、体はほろよいすら拒否して、冷奴をゲロに変えた。もう、限界が来ているのだと悟った。オーバードーズすれば尿閉塞を起こし、酒を飲めば胃液に変わる。もう無理なのだ。現実逃避も限界なんだと悟った。現実で戦えないから現実逃避の場に来ていたのに、体は否応にもより克明な生を求めるのだ。友人がDXMをオーバードーズして地獄を見た(この酷い感覚は経験した人にしかわからない)。ぼくは一週間で四百くらい錠剤を飲んで、尿が出せなくて騒いだ。体はリアリティを求める。脳は嘘を求めているのに。

 なにもすることがなくなって、そうだと思い付き、『NHKにようこそ!』を見始めた。小学生の頃に友人が勧めてくれて、これをきっかけにぼくは本を読むようになったのだった。そういえば、と、その友達がラインを送ってきてくれていたのを思い出し、「今、『NHKにようこそ!』見てるんだよね」と返した。すると、友達は「ああ、そんなのもあったね」と言う風に返事をくれたので、「ああ、これに固執していたのは俺だけだったか」と思った。幼児退行のように昔のことを思い出しても、そこにはもう誰もいない。何にすがれば良いだろう。助けてほしい。助けてと言えない人々のSOSが死にたいなのだ。キャスをして、人々を繋ぎ止めるためにうめくように言葉を発した。そうして言葉と言葉を口から発していたときに気付いたことがある。運良く、意味ある言葉の連なりになったものを発見した。

 それは人生に逆転はないと言うことだった。キャス中に発見したことだから、言葉が口語に近くなるが、許してほしい。男と女だったら、人生に顔が占める割合は女の方が大きいはずだ。しかし、ぼくは閉鎖病棟でとてもかわいい女性を見たことを思い出す。そして、今までの入院で「ブス」と呼ばれるに値するような人は、ほとんどいなかった。だから、きっと、人生は総合力なのだろう。五角形か六角形のグラフで、顔やコミュ力があって、知能があって、才能があって。そのどれかが突出していれば助かるものではないのだ。きっと、全部満遍なく普通以上なければ普通すら難しいのだろう。もう、それに気付いたときは力のない笑いしか出なかった。いくら少しのプラスを伸ばそうと頑張っても、マイナスをゼロに引き上げる方が何倍も難しい。顔か才能がダメ人間の生き残るすべだと思っていたのに。それすらもないのに。現実逃避すら出来ないのに。

 もう、ぼくの言葉のすべては、「助けて」と言えない故の、それに互換性のある言葉なのだ。もう、助かりさえしないのなら、せめて、いつでも消えれる女の子でありたかった。顔も良かったらいいな。せめて、消えるのなら、綺麗に終わりたかった。ぼくはおめおめと生きている。手首の傷はしくじった数。首の傷は本気でも無理だった数。もう生きているのに死臭がぶら下がっている気がする。なぜかぼくの部屋には酸っぱい臭いがする。胃液の臭いだろうか。ごみを出し忘れているせいだろうか。こんなにおめおめと生きているなら、人生のグラフで自殺の能力だけは高かったらいいのに。ピリオドを打ち忘れたみたいに、ぼくはいつかから止まったままだ。死にたい。さらに言えば、助けを・・・・・・。