反日常系

日常派

藁になる言葉、藁にしかならない日々

 日常を過ごしている。怠惰とも言えるというか、怠惰としか言いようがない日常に甘んじている。他意はなく思ったことが浮かぶだけの日々で、他人ともほとんど付き合いはなく浮き沈みに身を任せている。昨日はやけに知人や友人から連絡が来る日で、何を話したかは忘れたが、友人が文章を誉めてくれたことだけは覚えていて、溺れた人間がつかむ藁のようにキーボードに向き合っている。去年、このくらいの時期だろうか、後輩が文章を誉めてくれて、その気になってブログを更新し始めたことが思い出される。後輩は「彼氏が変わったらメンヘラじゃなくなりました」と言っていて、それでいいと思った。

 先週の水曜日に退院した。何も思うことがなく、働きもしない生活の維持に必死で、皿を洗ってはそれだけで大したことのように思え、そういう大したことで視野は埋まってしまい、埋まらなければ鬱やら何やらで不安になり、不安で目の前がいっぱいになった。何も変わらないから治らないのかなんて思うが、変えようにも恐れ、変わらないことにも恐れ、パニックじみた不安を薬と一緒に飲み込んでは日がな一日をやり過ごしている。どこかから現れたハエを殺せず、二三回手を叩いたあとに諦めて布団を被った。羽音から耳を防ぐためだった。朝起きても居座るハエに、おはようでもなく手で払いながら飯を食う。

 今日は通院した。医者には今まで通り、「人と関わるな」ということを言われる。いい加減狸の里の教訓じゃあるまいしと思うが、今人と関わらないことが唯一できる治療だと思うと、ただ単に言葉を弄する気力もなくうすぼんやりと気力のない笑いをするしかない。今現在は人間生活を行うほどの力がないのだろう。ヒト以下だ。また、人と関わらないことが人と関われない症状として診断書に現れ、手帳や年金に影響を表すならいいが、「人と関わらなければ健常者です」と言われたなら困るなと思ったりする。不具でおこぼれにあずかっているみたいなものだから、不具者でなければ生きていけない。生活の言い訳が立たない。悲しくもアイデンティティー化してしまった、させる他なかった障害の具合をどうするでもなく眺めている。良くなっても不安、悪くなってはなお不安と、生きようという気力がまるでない言葉でしか表されない現在に嫌気が差す。言葉では何も助かることはないということを確認するためにキーボードを叩いている気さえする。藁にすがってはやはり溺れたままだとわかる。藁にさえ興味を持てなくなる日がいつか来るだろう。溺れ死んだか、陸に上がったか。前者だろうけど。