保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

新宿血だらけ猫灰だらけ

 新宿で殺人事件があったらしい。殺人事件なんてどこでも起きてるだろうに、ことさら騒ぎ立てられるのは容疑者の容姿が良かったからだという。画像を見てみると、確かにかわいい。犯罪者だろうが容姿で許す許さないだのヤれるヤれないだの言い始めるのは男女で変わりはないんだなと、市橋達也を思い出して独りごちる。ツイッターで「死んだ男の前で煙草を吸う写真が素晴らしい」というようなツイートを多く目にして、野次馬根性で「新宿 血だらけ」や「新宿 血だらけ 煙草」と検索してしまう自分がどうしようもなく馬鹿らしく思え、世の中の物事を常に俯瞰した気になってる自分が馬鹿な自分を嫌悪した。かといって野次馬根性を止められるでもなく、それを馬鹿らしく思っているということを免罪符に、好奇心で検索をし続けた。誰かが撮った写真が保存されツイートされ、一つの写真をみんなが担ぎ上げるように共有していた。男は血だけを装飾として横たわっている。服を着ていない。人を人たらしめるのは服なんだなと思った。人間は物心ついた時から服を着て、多くの場合、服を着て死ぬ。死人にも着せる服があり、服によって人間は動物とは違うと勘違いをするのだろう。血まみれの男は一動物の死にしか思えず、まさかそれが思想を持った一個人だったものとは思えなかった。

 女は二十一にして人殺しになった。「相手を殺して私も死のうと思った」という。二十三のぼくが年寄りぶったことは言えないけれど、若いと生と死が簡単に思える。ぼくは二十一の頃に自殺を失敗してのうのうと生き延びている。たしか理由は失恋とか失望だとかが重なってだったと思う。若いと簡単に今と今以降を固定したがる。永遠を簡単に誓う。ピリオドを打つことでわかりやすく一貫性を持とうとする。しかし、生きるということは間違いを認めることの連続で、昔思っていたことが違うことがわかってしまう。とても難しく、目を背けたくなる恥ずかしさとの戦いになっていく。女は「好きで好きで仕方なかった」と容疑を認めているらしい。しかし、そのうちに「こうすればよかったな」だとか、「別にどうでもよかったな」だとか思う日が来るだろう。生きるということは古いおもちゃを捨てることの連続なのだ。そのうち、新しいおもちゃが手に入るまで、待たなければいけないこともある。そうしたときに古いおもちゃを思い返して、「やはりつまらなかったな」だとか覚えていないゆえに「素晴らしかったな」と思うときが来る。しかし、まずは捨て慣れることだろう。人を殺すことではなく、手放していくしかない。こんな当たり前のことは道徳ではない。利己的に自分が後悔しないで済む方法だ。

 木曜日にバーに行った。知らない常連の追悼をしていた。大人たちは捨て慣れて、簡単に人を素晴らしく思い、その思いでその人に関する感慨にピリオドを打っていた。騒いで酒をこぼして、次第に他愛もない話にうつろっていく。そうやって人は生きていくんだなと思った。死んだ人間に死装束が着せられるだろう。知らん動物だった男にも、知らん常連だった人にも。自分にピリオドを打てなかった人殺しも、ぼくも、生きたまま服を選んでいる。服を選ぶということでさえ一個人を生きているということになる。いつか捨てる服を着て、今のムードで動物以上ぶっていくのが人を生きるということなのだろう。