反日常系

日常派

動画に添えないただの文

 人が飛び降りた。人が人を刺した。人が人を刺し続けた。何もかもが好奇心の癖に呆れたジャーナリズムで、撮影の後ツイートされ、リツイートされ、目を覆う前に眼前に現れた。血まみれの写真の次の日は血まみれの動画が人々の悪意なき言及のために引っ張り出されて、いい加減飽きるほど露悪的になっている世の中のことを思う。ネチケットなんて懐かしい言葉を思い出す。ぼくの部屋にはテレビがない。世の中の情報はSNSという、人々の野次馬根性のジャーナリズムに頼っている。ここ数日は視覚情報に嫌というほどリアリティをつきつけるメディアのせいで、単なる「人が一人刺された」ということが百聞は一見にしかずで言葉で言い表すより扇情的に伝えられた。憶測でゲイ同士の痴情のもつれだと面白がれる文脈に置かれた動画が、面白がるためにさらに拡散され、その癖に厳粛な顔をして事件について語る人々がタイムラインに流れた。

 ただ単に人により多くの動揺を誘われたくないだけなのだ。未だに生と死に飽きることのない幼さを直視したくないのだ。否応なしに見せびらかす露出狂にも似た方法で、見たい見たくないの前に見せられるのが嫌だ。見せびらかすものじゃない。ぼくはなんだか人が死ぬ度に動揺してしまう。そういう時は本を読む。言葉の力を借りる。動画ほど露悪的でも距離が近くもない言葉を蓄えて、感情を言い表すすべはないものかと模索する。そのくらいがぼくにはちょうど良く思える。