保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

誰かのぼくが

 最近、とみに酷い。離人感(自分が自分の心や体から離れていったり、自分が自身の観察者になるような状態を感じること)が酷く、自分の行動が自我が決定したものだと思えない。木曜日にバーに行って、気づいたら土曜日だった。金曜日の記憶が飛んでいる。ラインを見る限り、人並みの自分が返したと思われる返信が何通か残っている。記憶はない。昨日(今日の昼)にブログが更新されている。記憶はない。荒らされた部屋を見るとブロンの瓶が転がっていた。お酒もある。これで記憶が飛んだのだろうか? いや、それならブロンを買うときの記憶が残っているはずだ。

 前記事の文章を書いているのが自分であり、自分ではないのだから、文章を書いているのが自分なのか確証がつかめない。一人称の書き方として現在の自分を信仰するしかないのだ。何をしているのだろう。気づいたら本日付のレシートにブロンと酒が印字されていた。記憶はない。そして、時間や場所が全く思い出せないが、家賃の更新をしたという記憶がある。記憶というのは一人称が獲得していくものだから、記憶があるではおかしいかもしれない。記憶が『あった』。置いてあったとも言える。携帯の電話履歴を調べると管理会社で、ToDoリストから「家賃の更新」が消されていた。溜まったごみ袋はいつのまにか消えていた。

 前もこういうことがあった。障害者年金の書類提出を忘れ、大急ぎで年金事務所に電話をしてみると「もうちゃんと提出なされていますね」と言われた。単純に気味が悪い。いくら書類を書いたり、ごみを出したりしようが、ぼくの体はぼくの体なのだ。誰かに乗っ取られやしないか。恐怖で仕方がない。生活関係の書類が(タスクが)残っていると非常に気がかりでストレスが溜まるとはいえ、自分が書いた自分名義の書類を本人である自分が知らないのは恐ろしい。気味が悪い。

 自分の病名は医者の口頭によると「解離性障害」らしい。解離性同一性障害との違いはわからないが、個人的に経験した症状は解離性混迷(大きなショックのために外的刺激に反応することができず、横たわる)、解離性健忘(大きなストレスがかかった期間の記憶が欠如する)、離人症(現実感の喪失)である。他の解離性同一性障害のように、人格があってそれぞれがコミュニケートできるわけではない。紛れもない自分が自我から離れて行動している。自分が怖くて仕方がない。知らない自分が、現実を虫食いにしている。だんだんリアリティーを失っていく人生を考える。一人の人間が肉体ではなく魂に於いて死ぬ。誰かにナイフを突きつけられているような、自傷ではないヒリヒリとした恐怖を感じた。