反日常系

日常派

実家

擬似家族の方をパパ、ママ、血の繋がっている方を父親、母親と区別しています。

 

 昨日ベンゾジアゼピンでラリってる間に実家に帰りたいって言ったらしく、することもないし実家に帰った。父親は思ったよりも肥えてなく、動きが散漫になっただけだった。父親も母親も、よく見れば若さが霧散していた。かといって引き合いに出される思い出などなく、昔のことは昔のことで整理され、今ではもう思い出せない。

 父親からは障害者年金のことを聞かれた。父親は障害者年金を受給しようと考えているらしい。担当医は受給させないつもりらしい。まあ、なににせようちはもうおしまいだ。一軒家が建って、子供が二人できただけでも大満足じゃないか。二人が障害者で、建てた本人も障害者になるとは思いもよらなかっただろうけど。帰るたびに、なんの発見もない。ここは前からボロかったんだなと、発見でもなく、なんとなくそんな気がするにまみれた。たぶん、差異こそあれ、このままボロくなっていくだろう。このまま老いていくだろう。別段興味もない。ぼくがベンゾジアゼピンで見た実家とは夢想郷のことだろう。ここじゃない。親の愛をそろそろ二十四にもなるのに諦めきれない、はっきりいって異常者だ。傷が増えれば増えるほど心配されるなんてことはない。

 一生この傷を隠して生きていかなければならないだろう。心配されることもないだろう。人に見せることもないだろう。満足することもないだろう。ただ、欠落がここにあるというだけだ。欠落には必ず充足が与えられるわけではないという意見を読んだ。この世の中に数多い悲しきヴァギナが最たる例にあげられていた。

 ぼくはトランスジェンダー(と言うには中途半端すぎるかもしれないが)で、アセクシャルだ。人と性的交渉を行う人々のことが理解出来ないでいる。自分のペニスは「子供を産むことが出来ない」という欠落の中にいるし、アナルはそれ自体が何を生み出すでもなく沈黙している。女性の性感覚がクリトリス感覚からヴァギナ感覚へと移行することで女性は女性的ジェンダーを受け入れると言ったのは誰であったか。ぼくはクリトリスにしては大きいペニスをつまらない顔して弄りながら、もう来てしまったために再び来るはずのない成人を待っている。充足の与えられない欠落が運命として決められている時、それは充足を求めているだろうか。諦めてしまっているだろうか。期待する限りぼくは一生子供だろうか? 期待をやめた時にはもう大人と言えるのだろうか。その問いに期待と不安を両交えでおろおろしている。