保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

どこかの海へ

 薬を飲みすぎて記憶をなくした。気づいたら実家に居て、髪の毛は安物のシャンプーできしきしになっていた。いい加減潮時みたいな毎日で、最期みたいな諦めが来たら穏やかになってしまう。

 父親は一回り太っていて、もともとの猫背が肉で強調されて不格好になっていた。薬の種類や量でマウントを取られるたびにむかつく。ぼくのほうが病人だと思う自意識で、何とか生き延びている。父親が「もう俺の病気は治らないって言われたよ」と自嘲していた。当たり前だ。精神病は治るって言わない。寛解と言うんだ。ぼくは病人も板についてきたから、病人初心者に教えてやる。絶望もやりつくした後に、諦めをやりつくさなきゃいけなくなるんだ。そのあとは何になるかなんて知らない。ぼくは通ってきた道を懐かしむけれど、その道を行く人には本当に少しの興味もわかない。

 父親は病人特有の仲間意識でぼくに話しかけるけれど、ぼくとしては虐められてきた記憶があるから全然迎合できない。「俺も仕事できなくなったよ」と言われても。「こいつ二年前ぼくを無理やり働きに出させたよな」と思ってしまう。二年前、働いて店長を殴って土下座して謝って薬を大量に飲んで剃刀で手を切って帰りの電車で寝過ごした。思い出せばむかつくことばかりだ。まあいいや。病人であることに慣れること、それしか穏やかになる術はないと思う。病院に行ったら気違いがいること。自分もその列に並ぶこと。不安になって自分を傷つけて、鏡を見たら気違いでしかないこと。

 毎日誰もいないリビングにクーラーをつけて、どこにいても弟の小便の臭いのするカーペットに横たわっている。今日は涼しくて、クーラーのない自分の部屋にいる。週間予報だと、もう一週間の視野に夏は現れないようだ。海を見たい。秋が来るたびに死んだふりをして、夏になるたびに起き上がる海を見たい。しみったれた地元の海は、メメクラゲに刺されるにはうってつけの海だけど、もう少し余所行きの海を見たい。色気づいた女の子が初恋の終わりを知るみたいな、そんな海を見たい。

 ツイッターでぼんやり、エモいと言われるような、男女がすれ違うだけの漫画を読んで、すれ違う相手もいないくせに感情を持て余したくなって海を想像してしまった。終わった青春の、命日を決めにどこかの海へ行きたい。殺した青春の骨を撒いて諦めた後、いったいどこへ行けばいいのだろうか。青春への期待を終えて、歳を取り始めなきゃいけないのにな。どこへ行くにも足がすくむ。海へ行かない限り、どこかの海はどこかのままで、想像にいるぶん現実をあざ笑ってくる。想像を肉眼で見てがっかりしたいというのに。