保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

日記

 ぼくは何回このブログに日記という題で日記を書くんだろう。

 また咳止め薬を飲んだ。いい加減こんなことはやめた方がいいと、もう誰にも言われなくなっているので、身体が自戒を込めて吐き気を催している。周りの人にとっても同じことの繰り返しだし、周りは周りで暮らしがある。何も心配されたくて薬や酒を飲んでいるのではない。いや、それもあるかもしれないが、それよりも自分の気分に手を焼いているというのが理由だ。夜から逃げるために薬や酒を飲み、重い頭を引きずって朝を迎える。どうやら、ぼくは調子が良くないほうが性に合うようである。文章も安定している時は書こうという気にならないし、この文章も、咳止め薬特有の手の震えと吐き気から注意をそらそうという意図で書いている。ほぼ痙攣で、無意識に画面をタッチしている。もう、身体が持たなくなるほうが早いかもしれない。精神薬も咳止めも初めのように効くのを楽しむというより、自分を追いつめるような効きに、効きすぎになっている。人の同情を引くのも回数を重ねると狼少年の様相を呈してくる。もうこんなことはやめたい。死にたいのか健康になりたいのか、どっちだと聞かれたら健康になりたいと即答できる。人の注意を引かないで済むのなら、引かないに越したことはないのだ。不健康で気を引こうという、その行為自体が不健康だ。呆れた人間から順番に、ぼくの手の届く範囲から零れていく。関わってくれる人には、よくもこんな人間と関わっていてくれるものだと思う。ありがたい。

 履きなれた靴が長年の雨で色褪せて、踵にいつつけたかもわからない血の染みがついてる。アクエリアスを買おうと外に出た。自販機に小銭を入れる手が震えた。しょぼいジャンキーの素振りも飽きてきて、そのくせ、もう身についてしまって辞めることができない。薬を飲んでも眠れないくらいに咳止め薬が効いているのがわかる。この夜をやり過ごさなければならない。終わってみればなんも思い出せないのに、終わるのがやたら長い夜の中を溺れている。毎回毎回、同じような夜の中、溺れると水の反射で全てのものが毎回違うように歪む。水の中から写生することで、一生正しいように描写することができないということを繰り返している。直視すること、それがものを書くことに一番必要なのに、気分に手を焼いていつも逃げ出してしまう。来月には二十四になる。今日は太宰治の映画を観て、その映画の出来とは関係なく太宰治について思いを馳せた。二十三は太宰治が魚服記を書いた歳であった。二十四はそれの発表。破滅的とはいえ、その破滅が作品に結実すれば、その破滅は許される。これは持論ではなく世論のようである。要に、人は看護師ではなく、観客になりたいのだ。ぼくも、芸ができるのであれば、それをしたいのだ。ぼくには恋というものがよくわからないけれど、人を看護師にしてはならないというのは案外恋の作法なのかもしれない。そう思うと、ぼくには恋人はいらないという結論に至る。看護師がいて、安心したいだけなのだ。恋の危なさはぼくが演じるには向いていない。病人の危なさなら得意なのに。死とエロチシズムを近いところに置く人もいるけれど、ぼくは不能なのでただの死である。エロチシズムは攻撃性と奉仕の側面があって、そのどちらもぼくは苦手だ。与えられるだけ与えられていたい。利己的にすぎる考えだ。

 友達の森は恋人ができて、とても調子が良さそうだ。長年の付き合いで、恋人がいたりいなかったりしていたのだが、森に恋人ができる度にぼくは自分のことでもないのに誰に誇るでもなく誇らしくなる。当たり前だ、あいつはとても良い奴なんだ。そう言いたくてたまらなくなる。こんな吐き気にのたうち回る気力もない夜は、以前、酒を飲みすぎた時に森が口に指を突っ込んで吐かしてくれたことを思い出す。人間は恋以外に人を一番近しいところに繋ぎ止める手段を未だに発明しないようである。だからぼくもいい加減、恋愛を身につけなければいけない。与えられるだけの赤子から成長して、取引を覚えなければならない。