保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

再開

 なかなか上手くいかない。そんなことはわかっていたのに、少し上手くいったら物事は上手くいかないことばかりだということをすぐに忘れる幸せな脳みそだ。そんな脳みそで毎回初めてのように感じるサッドネスを何回目かも忘れて思い出しては懐かしんだ。彼女ができたからブログをやめようと思った。物を言い続けるのは不幸せな人間がやればいい。これは今でも本気でそう思う。幸福な人間は本音だけでは生きていけない。幸福を維持するには取り繕うことが必要となる。これは哲学めいた何かではなく、元カノと別れた理由がこのブログだというだけの話である。

 まあ、今の彼女も何を考えているのかわからない。男だろうが女だろうが考えていることはわからない。ただ嫌われていないかとか、そういうことばかり考えては、人の気持ちを推し量ることの難しさと持ち前のネガティブに直面する。何が彼女を怒らせているのかとか、彼女にどういうふうに見られているのかを考えては、いずれ来るだろう別れに、身を硬くして決意する。こういった自分を取り繕うための、自分を誤魔化すための、受け身を取るということが人に嫌われる要因だとわかっているのに止めることができない。

 いろんなことを思う。才能がないこととか、自分の顔が幽霊みたいになっていることとか。もう一度タナトスに火をつけて、死への想像力を捨てて何も考えずに死ねたらいい。しかし、何回も死のうとして学び得た、「楽な死など合法ではとてもじゃないが獲得できない」ということが躊躇というよりむしろ諦めに近く空虚に響いた。バンドをやりたかった。最後に青春っぽいことがしてみたかった。と最期を迎える人間みたいに思う。まあ、死ぬのはとうの昔に諦めてるし、この後悔は劇薬みたいに濃い人生を送ってさっと死んでしまえないことへの憧憬なだけで、やたらと臭い死を匂わせては死にかけるようなメンヘラ的文章ではないことを注釈しておく。

 いろんなことがぼくを苛立たせるが、苛立つのは小動物的野生の感覚故に、つまりは自分の矮小さに気付き、その生存に向かないという自覚が緊張を与え、やけに苛立たせているだけなのだ。死ぬなら今かなあとは漫然と思う。ずうっと仲の良かった森は彼女ができてめっきり連絡ややりとりの往来もなくなった。彼とやる気になっていたバンドも、ドラマーが入ってはそそくさと抜けて、今ではベーシストがぼくの何を気に入ったのか目を輝かしているだけで、輝かしい今後があるわけでもない。せめて、バンドメンバーになってくれたのだから、それ相応の努力はしないといけないよなと思うのだけれど、ベーシストは様々なことに忙しそうだし、自分は虚脱の域に達しているからせめて悲観的な死をもって許してもらおうかなと思う。これは癖になった冷笑のジョークです。誰も笑うことのない。

 何回も言うようにぼくに死ぬ気はない。注釈がやけに増えるのは少しは幸福だからだ。死ぬ気はないが、とりあえず今のところはという注釈も同時につけなければならない。どうせ死のうとしたってうまくいきようがないんだ。死にたいくらい言わせてくれ。さっさと死にたい。何も為せなかった理由が早逝のせいにできるなら。さっさと死にたい。何もない日々が土の中で過ごすことになるだけなのだから。