保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

退院予定

 退院の日程も決まって、看護師さんが「よく頑張りましたね」みたいなオーラを放ってくる。ぼくは何一つ頑張ってないし、何一つ良くなってない。口酸っぱくこんなことを言うのはぼくと他人との間の認識の違いが恐ろしいからだ。どうせまた手首かどっかを切るだろうし、薬を多めに飲んでしまうだろう。

 ぼくは自分が辛いということを自傷の形でしか表現出来ない。そしてどれだけ辛いことを理解してもらえても、それは何ももたらさないということを受容することができない。泣きわめくだけの赤ちゃんみたいに、解決を求めてるくせに言語化はできない不快の表明を、声を大にして行動に発破をかけて繰り返していくだけだ。いくら理解されても、それが真の理解だとは到底思いたくない。だから他人に理不尽を押し付けては暖簾に腕押しで逃げられていく。

 なんの理由があって自傷するのか、自分ではこれといった答えを探すのが難しい。落ち込んでいる時はふわふわ幽霊の足取りでカッターを買って、ドラッグストアで薬を買っている。死にたくはない、と思う。でも死の淵に近づけるかどうかでしか人に辛さを説明できないと思う。またこんな話してる。

 

 どうせみんな忙しいから、優先順位の下の方になって、どうでもいい人になっていく。週刊少年ジャンプを読むみたいに、友達も仲の良かった人らも、下のぼくのラインを読まなくなってく。ずーっと思うのは不断の復讐だけれど、人々が言うような、生きることだったり、生活の充実が復讐として機能するにはまず相手がぼくのことを視界に入れることが重要に思えてくる。そういうことを言いたいわけじゃないのはわかるけど。まあ、ぼくも人を切って生きているし、愛し愛され生きるなんて夢のまた夢で、縁を切り切られて生きている。

 夢の中でもう関わりのない人を見るのは最低の気分だ。触れたくもない喪失を思い出したくない。失ったんなら失ったままでいい。失って学ぶなんて前向きなことはしたくない。わざわざ死んでもない人を悼むみたいな、どうしようもない気持ちになる。性格悪く書くなら、都合のいい人が都合の良くない人になってく。ぼくの都合のいいって、ぼくと仲良くしてくれるだけでもいいんだけどな。

 話がずれたけれど、そろそろ退院します。また日々を乗りこなせずに鬱々とした事物に横転して傷をつけるだろうし、まともな時は鬱に不感症になって、自分の中ですら理解できないという断絶の向こう側で鬱を遠巻きに眺めているだろうと思う。せめて自分なのだから自分のことを理解していけたらいいのにと思う。自分が何をしてるのか、ほぼ理解できない。