反日常系

日常派

ほっといてくれ愛してくれ

 愛について、特に語るべく経験も、言葉にしなければならないというような情熱もない。わたしは二十四になった。つい最近、恋人と別れたばかりだ。しかし、特段、感情を動かすことはなかった。今までの失恋も、恋人その人がその人であることが必要で、それが失われたから悲しんでいるというわけでもなかった。ただ、喪失に慣れていないから悲しいというだけだったような気がする。生きるということは腹が減っていることに慣れるということだ。真新しい不足に埃をかぶらせて、目に入らなくすることだ。
 人々がどのくらい恋愛に人生の比重を置いているのか、わたしはわたし自身の考えが掴めないのと同じように、人の考えが掴めない。恋人がいる時の充足感は、性欲を充すことができたという以外に何があったのかと思う。あまり別れた人たちのことを言いたくないけれど、これはわたし自身の問題であると思っている。安心や安定といったものは、(なかなかそうは思われないけれど)常に真新しい環境である。人を安定させようと思うなら、飽きが来ないように充足させ続けることが必要だ。わたしはわたしの過去や病歴で、人に安定させようと思わせる能力が人より高いように思われる。そして人に自分を安定させようとする行動理念に沿って生きているような気がする。これは全くいいことではないのだが。
 人に安定を祈られると、それはそれで息苦しさを覚える。人を立てて安定しなければならないと思うからだ。だから、安定を願う人たちに仇となるようなことばかりしている。息苦しいと思うとそれが自分の考えのせいだとわかっていても、他人への反感として現れる。結局のところ、わたしはほとほと救われるには向いていない。毎回のように信じる気もない神を信じようかと思うのだが、それは一瞬真新しい風景を見せるが、神の姿も見慣れれば反感を覚えるだろうということはわかっているのでその気になれない。宗教はそれ自体の教えがいくら素晴らしいかによらず、その周辺のコミューンである。だから、人が周りを囲めば何にしたってアンチ○○の姿勢を見せる。救いを求めても、救いを受け取ることが出来ない。
 人によっては愛が救いだと思う人も信じる人もいて、それが救いにならないと思うぼくのような人もいる。それは前者が後者に至っていないというような簡単な優劣で片付けることはできない。前者から後者に至る人も至らない人もいる。初めから後者の人もいる。それでいて、双方は相手の気持ちを推察することができない。何歳になっても愛に救われる人はいる。それ自体が羨ましいことだとは思うが、わたしはそれに参加することも参加したいと思うこともない。

 退院したら、馬鹿でかい酒を買おうと思う。ウイスキーの馬鹿でかいやつを買って、適当に水道水を混ぜて、日常に潜む自我の野郎をぶっ殺してやろうと思う。同じことを、パパがしていたのを思い出した。それは喪失からくる行動だったと思っている。新しい恋人ができて、それが充足させているのだろうと思う(これはわたしのひねた目付きに拠る考えだ)。わたしは喪失からくる行動ではない。空洞の維持に必要な行動。充すことのできない空洞が広がることを防ぐ行動だと思う。しかし、人の気持ちを推察して、それが答えだと思うことは、勝手にその人に人が理解できる感情の共感性を求めることだから、もうパパについて語るのは止める。最近、わたしは人に感情を推察されるのにも反感を覚えるからだ。わたしやある種の人々にとって、生きることは病気の獣みたいに日に日に反抗の色を増していってる。生きること自体が生きることへ反対しているように、わたしは方向を間違えたまま吠え続けてくたびれるのを待っている。